今週末はすこし気持ちに余裕があったので、自分の拗れた部分と向き合ってみました。
昨日は自意識過剰についての記事を書きましたが、なぜ向き合ったかといえば、自意識を乗りこなしてもっと自由に表現したいからなんです。
拗れた部分をほどいて、もっと自由に、かたちにしたい。
この読書ブログをはじめて半年が過ぎて、最近自分の言いたいことは文章だけじゃなくて図説とか、絵で表現したいと思うことが増えました。このブログは自分用のまとめノートでもあるので、読んだときに思っていたニュアンスをもっといろんな方法で残しておきたいなと考えるようになったんです。
しかし、絵をかくこととデザインすることにものすごい葛藤がありまして…とにかく時間がかかるうえに、アップできないんです。自分のOKが出ないんですよ。めんどくさ~!
この間の「タイタンの妖女」の記事とかがそうなんですけど、自分の思うクロノ・シンクラスティック・インファンディブラムを絵で描けない。頭の中にはこんなにいい感じにあるのに。悔しくて嫌になって、でも乗り越えたくて結局下書き写真をアップしたわけでした…
そういえば、書くことは平気でできるな
絵やデザインには葛藤があるのに、文章に対してはそれが全くないのが不思議なところです。別にうまく表現できなくても、あとで上手く書けるようになったらリライトできるからいーや!くらいの軽いもんです。
まだレビューしてないですけど、「書く仕事がしたい(佐藤友美著)」という本には、書くことに対する心理的ハードルが高すぎて書けなくなってしまう人がいることが載っていて興味深かったです。
わたしが絵を描くことや、デザインを考えることに対して辛く思っているのを、同じように文章に対して思っている人がいる。
この本では「書けない病」「私が書くなんて恐れ多い病」と称していて、文章に対する畏怖心がありすぎるあまり、自分が求めるレベルが高すぎるあまり、こうなってしまう人がたくさんいると話していました。
わたしは書くのは全然抵抗がない。書けば書くほど上手くなる謎の確信があります。ゆえにいま全然できていなくても気にならない。というかそもそも上手くなろうと思ってない。
より自分の好みの表現を見つける楽しみで書いているし、書いていくうちに思いがけない発見とか、つながりが生まれるのが面白くてやっているというのが本音です。
デザインや絵を描くことは、既に「こういうのが素敵だな〜」というのが先にあるからうまくいかないのかも。目的のものができない辛さと、畏怖心、尊敬を強く持ちすぎてることが拗れる原因なんだな。これを越えないと、わたしに先はない。
心理的葛藤が強い部分は、AIに任せればいいのか?
一方で、別にもうそれはそれで、ほっといたほうがいいのかも。辛いことをわざわざやらなくても、とも思います。苦手なことはそれこそ生成AIなどにアシストしてもらって、わたしはわたしが無理なくできてしかも楽しい、好きな本の探求や心理的冒険に専念すればさらに豊かになりそう。
でもきっと自分の思うものをAIに的確に表現してもらえちゃったら、それはそれで嫉妬心とかが生まれてきそうだな…やっぱり、根底としてわたしは自分でやってみたい思いが強いし、辛くてもしばらくやったほうがいい。どうしてもダメそう(辛くて前に進めない、イライラして周りに当たり散らす)だったら、AIとか他の方法を検討しよう。
やってて万が一楽しくなったらしめたものだもんな。手を動かしてこそ。ハードルを足元くらいに下げて、ブログにとにかくアップしまくれば感覚が麻痺するでしょう。(現に、タイタンを中途半端でアップしたことで、心理的ハードルはかなり下がった)
思考実験を繰り返して、自分なりの方程式をつくりたい
今回は自分の拗れた部分と平気な部分を対比して、平気な部分を掘り下げることでこんがらがったところを別角度からみてみました。また拗れた部分を別の方法で補えないか検討することで、やってダメだった場合の保険ができて気が楽になった感じがします。
動きたいように動くためには、わたしの場合、思考をこねくり回して自分なりの方程式つくることが大切です。家族に説明すると「へー…大変だねえ?」と憐れまれるけども、もう動くためならば何度でもこういうことをします。
こんな思考実験もまた遊びということで。そう、思考で遊んでるんです。「思考遊戯」も、わたしの立派な趣味の一つかもしれません。
今日もお遊びに付き合っていただきありがとうございます。今週末どっぷりと思考に浸かったおかげか、ずいぶん頭の中がスッキリしました。また明日から動きます!すんなり動けそうな気がする!