この間読んだ向田邦子作品「隣の女」に魅せられ、その後本屋でたまたま見かけた「思い出トランプ」を読んでみた。
小説新潮にかつて連載していた短編連作で、連載終了を待たずに直木賞を受賞したというこの小説。話数はトランプの絵札と同じ13。連載順ではなく、シャッフルされているのも面白い。
「隣の女」はすべて女性目線だったけど、これは男性目線の話が半分以上だった。
人間心理の暗がりを照らす話が多く、この気持ちを深掘りしてよいものか?この闇はめくってもよいものなのか?登場人物たちと一緒に惑う。
深淵を覗くとき、深淵もまた…とよくいうけれど、めくってしまったらもう以前の自分には戻れないような緊張感があった。
ちなみにめくるのは表題にもある「思い出トランプ」だ。今回は直木賞を受賞した3本の短編「かわうそ」「犬小屋」「花の名前」をトランプのカードをめくる感覚で、あらすじを追いながらレビューしていく。
1.かわうそ
頭のなかで地虫が鳴いている。向田邦子著「思い出トランプ」より引用
脳卒中で倒れた主人公は、売りに出してしまうかもしれない庭を眺める。命に別状はなかったものの、半身に軽い麻痺が残った。土地を売ることに積極的な妻は、休職してから以前にも増して、いかにも夫を支える妻然としている。
よく出来た、面白い妻だと思っていたのが、過去を思い返したり、いま現在の挙動をみるなかで整理していくと徐々にしたたかな、食えない女に印象が変わっていくのが恐ろしい。 どこまでも屈託なく、歌うように主人公を世話する女が恐ろしい。
とんでもない化け物かもしれない女を前にして、最後のブラックアウトは終焉か反撃か。一話目ながら、最も胸が鷲掴みされた作品だった。本当に14ページしかないのか?いまだに信じられない。
6.犬小屋
「犬地図ねえ」
と呟いた母に、
「ありゃ自分のことだな」
父は、よく分かっているようであった。
向田邦子著「思い出トランプ」より引用
身ごもった主人公が電車に乗ると、同じく妊婦をみつけた。ふと目に入った隣に座る旦那が、以前家に来ていた「カッチャン」だと気がつき、動揺する。
そのまま電車に乗りながら、カッチャンが自分の家に通っていた時のことを回想していく話なのだけど、なんというかもう忍びない。自分のことを立派に、よく見せようとすればするほどにわざとらしくなっていく様が見事に表現されている。
カッチャンは決して嫌なヤツ、ではないと思う。思うのだけど、ああ、もう…ただただ残念な気持ちになる。
ちなみに犬地図っていうのは、どこの電柱に自分の匂いがつけてあるのか、どこに嫌な奴がいて、どこに御馳走があって、どこに憧れの雌犬がいるかが犬はちゃんとわかっている、ということなんだそうだ。
冒頭でぼんやり幸せの概念を考えていた主人公に、カッチャンの思い出はどう映ったのだろう。割とどんな本を読んでも共感するほうなのだけど、最後の主人公だけ分からなかった。犬に対する気持ちのようなものだろうか。
12.花の名前
家族四人、銀婚式を迎えた我が家に水を差す一つの電話。女は、会って話したいことがあるという。
夫に何から何まで教えたわたしは、いまから知りたくないことを知りに行く。
「結婚したら、花を習ってください。ぼくに教えてください」
向田邦子著「思い出トランプ」より引用
もうすこしで、わたしも主人公とともに飛びつくところだった。こんな慎ましい口説き文句を言われてみたい。でもこんな未来が待っているならなあ。信じていた地盤がグラグラ揺れてわからなくなっていくのが怖かったし、むなしかった。
男は女はとかいうのはあれだけど、女っていうのは確実に若さがものをいうところがある、と思う。なので、誠心誠意尽くしてこれかと思うと、やっぱり人のために生きすぎてはいけないと感じるのだった…。
女の物差は二十五年たっても変わらないが、男の目盛りは大きくなる。
まさにそういうことなのだと思う。いままでのことを振り返って「それがどうした」なんて言われたら、わたしだったら張り倒してしまいそうだ。この時代には、とてもできなかったことなんだろうけれども。
「思い出トランプ」が出現したら、どうしよう
読んでいて確信した。わたしにもいつか必ずこの「思い出トランプ」が出現するときが来る。もしくはもう何度か出てきてたけど、見ないふりをしていたのかもしれない。
心にぽっかり隙間が生まれたとき、過去をぼんやり振り返るとき、家族のことを思いがけず省みるときには、細心の注意を払おう。
もし出てきたら…いや、出てきても、対策なんて無意味だろう。物語の主人公たちのように、底知れない闇に動揺して畏れたり、奥に入ろうとしたり、眺めるだけだったり、もうその時の自分にゆだねるしかあるまい。
カードが出現した時点で、自分は既に本質的に何かを悟ってしまっているだろう。もう、元にはどうやったって戻れないのだから、やることとしても、やるかたないというのが本音だろう。そんな雰囲気を、一つ一つの物語から感じる。