道路の側溝の蓋をはずして、底に沈むヘドロを小鍋に一杯。それを自らの内臓に入れてくつくつと煮込んでいるような1週間でした。
もはや、どうにかしたいとも思わない。こんな時のためにジョーカー要素で待機させていた「苦役列車」に手を伸ばす日が来ました。
2011年の芥川賞受賞作で、表題作「苦役列車」とその後を描いた「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」、2つの短編が収められています。どちらも私小説なので、著者のこれまでが克明に記されています。
劣等感と怠惰、怒りと衝動…若いだけではない、やり場のない思いはどこからくるのか、どこへいくのか。そんなことを考えながら食い入るように読んでいました。
内容を振り返りつつ、感想というよりは情緒の実況中継のようなものをしていきます。ネタバレ有なので気になる方は読んでからどうぞ。それでは始めます。
あらすじ
主人公の貫多(かんた)は19歳、中学卒業後一人暮らしをはじめ、日雇い労働をしながら食いつなぐ生活を送っています。将来への漠然とした不安を抱えながらも、自意識やあらゆる欲求を持て余す日々。そこに変化の兆しが訪れます。
彼はこの変化に何を思い、どこに向かうのか。苦役に服しながらもがく彼を、しばし覗き込む物語です。
苦役列車
日雇いの仕事先で専門学生の日下部と出会い、親しくなっていきます。日下部は爽やかに職場に溶け込んでいき、前向きな雰囲気や仕事への態度に貫多も影響を受けて日常が変わって行くのを見るのは嬉しいものです。一方で、貫多は酒・風俗などに頻繁に誘うようになります。
貫多の進もうとする道にはいつも親のしでかした犯罪がまとわりつき、何度も行き止まりで元に戻る姿を見るのが辛かったです。頑張ったとて、結局はあの男の倅なのだ…と言われると、もう何も言えなくなってしまいます。
ただ、貫多には得体のしれない強引なところがあり、ここは自分には理解できず狂気として残りました。親、日下部、日下部の彼女に向けられた一方的な思いは時として暴力的で、ただどこか甘えるようなしぐさにも見えて、気持ちの置き所が分からなくなる感覚がありました。
出会いで人は変わるのか。いくつかある分岐点で折り返す主人公を見るたび、虚しい気持ちが湧き起こりますが、貫多はどうしても納得できなかったのだと思います。
だからこそ、彼を揺さぶるものが現れた最後が光るのかなと…印象の残るラストでした。
落ちぶれて袖に涙のふりかかる
苦役列車と同様私小説なので、これも作者の人生が投影された作品です。貫多は40代、小説家になっています。
40ページ程の短編ですが、4分の1くらい這いつくばっているのが痛々しくも少しおかしくなります。いや、ものすごく辛そうではあるんですけど。
人間性もあまり変わりがないような気がします。前みたいにハラハラするようなところがないのは、お金の心配が多少薄れたからか、仕事へのイメージからなのか…受け取るものが変化するのはなぜだろうか、と思います。
父に関する"行き止まり”も未だにあります。これは、もう、永遠について回るものなのが本当に辛い。親は、子供をこんな境遇にさせてはいけないと強く思います。社会はこの境遇を持った子供をどう救えばいいのでしょうか。
しかし彼は、そんな状況にあるからこそ小説を書いているのである。自身をあらゆる点で負け犬だと自覚すればこそ、尚と私小説を書かずにはいられないのである。
西村賢太「苦役列車」P155より引用
彼が納得できたこと、それがこの文章に表れていると思います。この結論に自らを導いた貫多こと著者は、なんだかとてもまぶしく見えるのでした。
「どうしようとも俺である」の格好よさ
物語って、A地点からB地点に感情が動くものが多い気がするけど、この小説は「AはどうしようともAである」を貫いています。AはAであり、Bにはなりえないのか。
後半の短編を読むと一見、B地点に動いたかのように見えます。ただ、読み終わると、やっぱりAはAでした。
それが進歩してないとか怠惰だとかそういうことではなくて、思考回路の導き方、着眼点、連想の仕方、そういうものは生まれながらに配られたトランプのようなものなのかもしれないなと思えます。
捨てたつもりがまた引いて、どれで上がりとするか?そういう事を、ずっとやっているのかもしれません。
「どうしようとも俺である」。小説に落とし込む、さらけ出した姿は恰好いいな。この方が今を生きていてくれたら、もっと心強いのですが。