星野智幸著「ひとでなし」を読んだ。北海道新聞、中日新聞、東京新聞、西日本新聞、神戸新聞に、2022年8月~2024年7月まで連載していたもの。
連載していたことは知らず、書店の平積みで帯のコピー、目次、初めの1ページと読んだら主人公の人生が気になり、すぐに購入を決めた。あの時の冴えた自分に感謝したい。
多かれ少なかれ、生きていくことはいろんな可能性の死だ。死んだ成分は新陳代謝のように剥がれ落ちていって、それでも何事もなかったかのように生きていかねばならないとぼんやり思っていた。
この物語は、そんなありえた可能性に「生」を与えてくれた。物語の主人公・イツキがもがきながら同じ日本を生きていく様を見ていると、自分自身の過去を追体験していくような感覚を得た。あの日の私たちに確かに会えた感覚がある。
今日はその辺の話を書いてみようと思う。
わからない毎日の追体験
なんでこんな気持ちになってしまうんだろう。
どうしてこんなことをしてしまったんだろう。
みんな少なからず思ったことがあると思う。私はこれを繰り返す日々を何十年と過ごしてきた。もう嫌になるくらい。イツキもそうだった。
嫌な気分は何もかもノートにぶちまけて、言葉の部屋に閉じ込めなさい。(P10)
星野智幸著「ひとでなし」より引用
イツキは、担任の先生から架空の日記を書くことを勧められる。もやもやした心が得体の知れない化け物になってしまう前に、言葉の部屋に閉じ込めなさい。そこにそいつの都合のいい世界を書いて、大人しくしてもらいなさい。
そこからイツキは、成長に応じて内面に湧き出るいろんな人格を書いて行く。書いた内容が本当なのか嘘なのか?あいまいになってしまうくらいリアリティがあったりすることもあって恐怖を覚えながらも、書いていく。
イツキの成長に自分を重ねて
イツキは環境の変化や社会に順応できない自分に悶えながらも、どうにか生き延びていく。それは梢、みずきなど、魂が近いところにある者たちとのつながりも大きかった。社会人になり、周りに影響を受けつつ何らかのかたちが生まれて、この中でやっていけそうだという見通しが見えてくる。
バブルがはじけ、リーマンショックがあって、9.11を経て東日本大震災があって…フィクションが混じってはいるものの、日本で起きた出来事に、自分の世界にイツキがいる感覚になる。
イツキの辿ってきた道とは全然違うはずなのに、私の過去も引っ張り出されてきて、一緒にこの本を読んでいる気持ちになってくる。
(ネタバレあり)過去のありえた自分は死んだのではない
ここからネタバレする。感想を書くのが未熟で申し訳ない。
でも、イツキがニッキーに会えた時、わたしも自分の一部に会えたから、もう言ってしまった。ファンタジーでも何でもいい、この「会えた感覚」は何物にも代えがたい。
死んだ、と思うのと、生きてるかも、と思うのと、全然違う。急に愛おしく、ともに世界を生きる仲間に感じてくる。
この架空の事実の中で、私は深く呼吸ができる。物語の醍醐味かもしれないと思った。
今もなお続く、わからない日々
大規模な部分では社会情勢、政治、災害、小規模だと人間関係、仕事、家庭など、今もなお、どうしたらいいか分からないことだらけだ。
自分の人生は、こうして、ありえた自分がリレーしてつながっているだけだという気もする。リレーする瞬間だけ、そのつなぎ目が見えるけれど、すぐに忘れてしまうのだ。(P536)
星野智幸著「ひとでなし」より引用
ありえた自分といまの自分は別の世界線だから交わるはずはない。何となくつながっていると感じることによって、現実が劇的に変わるとかそういうことはないんだろうけど、「あ、生きてるかも」と思えたことに意味がある気がする。
過去なりたかった自分にやっぱりなりたかったとか、そういう事では全然なくて、今のわたしは私のままでいい。過去の自分も、そのままでいい。でも、あいつは夢叶わず死んだわけじゃなくて、今も生きてる(かも)。お互い、まあ大変だけどなんとかやっていこうよ、と思えた。
イツキは1965年生まれ、2024年現在59歳。彼は今日も架空日記を書いているかもしれない。決して明るい内容ではないだろうけど、それって今イツキが懸命に生きようとしてるってことの証だから。彼が誰も見せてはいけない架空日記を見せてくれたことに感謝している。