2025年の夏休みも終わろうとしていますが、いろんな場所で読んだ「向田邦子ベストエッセイ」は想い出に残りそうです。
妹の向田和子がセレクトを手伝った、向田邦子のエッセイ集です。家族、食事、仕事、旅、こだわりの品など、全50編。数ページくらいの短いものも多いですが、余韻が素晴らしくうっとりとした読み応えがあります。
勝手におすすめしたい季節は「吹き返す、春」「けだるげ、夏」「別れ実る、秋」「しんしんと、冬」…つまりは、一年中が読み時となります。
シチュエーションでいえば、在来線のホームのベンチで、帰省中のかつての自分の部屋で、休日にベッドに寝転んで、大切な人に会った帰りにもいいですね。つまりは、ふと、心に隙間ができる時。このエッセイは沁み込んできます。
明日からまた日常が始まるので、どこまでできるか分かりませんが、章立てごとにゆっくり読み返しながらレビューしてみます。
向田邦子ベスト・エッセイ 目次
- 家族
- 食いしんぼう
- 犬と猫とライオン
- こだわりの品
- 旅
- 仕事
- 私というひと
今日は「家族」の章。10の話を振り返り、まとめに感想を話します。しばしお付き合いいただければ幸いです。
「家族編」10作品
父の詫び状
伊勢海老、猫、蛙を挟んでまた猫、果ては「間諜X」。
玄関の床の汚れを拭きながら生まれた思考の一端が、父との記憶に触れる。
仙台の寒い晩、来客の靴の汚れを取り、揃え、果ては後始末まで。
三和土(たたき)にまつわる、父の不器用な愛情は、数日後にやってくる。この奥ゆかしさが、以後何十年も沁み渡る想い出となる。
ごはん
1945年3月10日、東京大空襲を経験した我が家に関する話。生き残ったものの、明日どうなるか知れない。ならば、と家長がとった行動は思いがけないものだった。
場面は変わり、自身の命に関わるかも知れない時に食べた鰻と母の気遣い。どちらにも、深くて切実な愛がこもる。
白か黒か
湯加減からはじまる決断力の話。父が入る一番風呂を前に、湯加減を確かめる。一定であれば良いわけでなく、コンディションによっても「ちょうどいい」が変わる。日々の重要任務に悪戦苦闘する子どもの姿がかわいらしい。
白か黒か。丁か半か。
人生に、生活に、博打要素があるのは、現在も変わらぬ妙味である。最後の転調、「ぼんやり」の意味合いが分かる人間にいつか。
麗子の足
岸田劉生展を覗いたときのこと。「麗子」像より「麗子住吉詣之立像」が好ましくなっている自分に気がつく。年を重ねるにつれ変わっていく五感や美意識。着物から洋服へ、下駄から靴へ移り変わる時代の流れとともに、脳裏を掠めていく。
丁半
父の茶目っ気が垣間見える一篇。麻雀に子供たちを誘う流れが微笑ましい。父は賭け事が嫌いではなく、対照的に母は勝負事をしなかった。
いや、そうだろうか?思考の展開から浮かび上がるのは、母の結婚、子育て、日々の生活における博打の連続である。
「よろしゅうござんすか。よろしゅうござんすね」
向田邦子ベストエッセイより引用(P49)
自分を賭ける者に、賭け事はいらない。
知った顔
外出先で親兄弟に出会った時の、何とも言えない感情がこもった話。気まずさと駆け引き、どこまで見送るのが正解か。怒りが不正解とも限らないのが、父の難しいところ。しかし、矛盾した感情と行動は、やはりどこまでも心に残るものだと感じる。
娘の詫び状
自身初のエッセイ「父の詫び状」出版に際し、白状しなければならないことがある。
家族を思う嘘は美しい。嘘と分かっていても、それをおくびにも出さずに騙されておく家族はさらに美しい。
家族の形は家庭の数だけあり、それ自体も常に変化している。記録することの難しさが、娘の詫び状には添えられる。
お辞儀
留守番電話サービスがはじまったころの様子が描かれている。黒柳徹子の記憶に笑いつつも、印象的な留守番電話を思い出している最中に浮かんだのは、年をとった母の姿。
お辞儀に込められた母の思いを受け取り、角度を引き合いに出してなんとか笑い涙する兄弟たちに胸が熱くなる。
家族にお辞儀をすることはなかった父と、今、子供たちにお辞儀をみせる母。どちらにも思うところがあり、どんな顔をしたらよいかが分からなくなる。
父の風船
普段厳しい父がみせる、子供への深い愛情がここにある。
宿題に苦戦して泣き出す娘に怒鳴ったあと、四苦八苦しながら睡眠時間を削って作ったのだろう紙風船。「頑固で気短かな父が、実は子煩悩」だということを伝えるために母が選んだこの小話は、結末を含めて笑みがこぼれるあたたかなエッセイになっている。
字のない葉書
妹と父母にまつわる、戦争の哀しさとやりきれなさ。疎開に出すことを決めたものの、無事を知らせる手段がない。そのために用意したのが「字のない葉書」で、端正な父の字で宛名だけが書いてある。
大きな丸が、小さくなり、やがて印が変わってしまうもの悲しさに苦しくなる。
その後「なにかできることは」を、家族総出で取り組む姿に励まされる。
家族という役者がそろう小集団
今日は、家族の章にあった10編を紹介しました。読み返していると、人間ドラマを数多く描いてきた著者の言葉だからでしょうか、「家族とは役者が揃う小さな集団に過ぎない」という気持ちが湧き起こってきました。
家長は家長らしく。
母は母らしく。
子供は子供らしく。
「らしさ」は時代や家庭によって違ううえに、集団の成長によっても形を変えていく。私たちは普段、自然に生活しているようで、ものすごいバランス感覚をもって生きているのだと思います。
適当にやり取りをしているつもりでも、無意識に言葉の機微を捉え、距離を測り、現在地を確かめ合っている側面もあるでしょう。
小難しく考え始めると誰とも話せなくなりそうなので終わりにしますが、それぞれの個性を交じり合わせた「家族」というものは、相当に味わい深いものだと改めて実感しました。
まあ、しかしながら、作中にあるように家族が著者にクレームを入れることにも納得です。私は読ませてもらってとても興味深く、救われる部分も多く、それは他の読者も同意見だと思いますが、晒されたほうはたまったものじゃないでしょう。私も身の回りの人のことを書くことがあるので、うまくぼかすなど気をつけていきたいところです。
それでも、著者の没後に末の妹が家族を想ってエッセイを選んだことを思うと、愛情と感謝の気持ちが勝っていくものなのかな。こんなに味わい深く書いてもらえたら、こういう形で自分たちが生きた証を残してもらえたら、年を重ねるごとに嬉しさは増していくのかもしれません。
家族って面白い。そして、なんとも不思議な集団です。役柄を演じるなかで垣間見える本音にも注目ですね。