BOOKS:LIMELIGHT

読んだ本を、感想とともに紹介していきます。

2つの世界の境界線に立つー宮沢賢治「サガレンと8月」を読んで

読書感想をまとめてはここに載せ、石を積むように書く日々です。積めば積むほどに、なんだか自分が鮮明に、確かなものになっていく感覚がありました。それが今週、なくなりました。

宮沢賢治「サガレンと8月」は、個人的には危ない本です。前後不覚、五里霧中。自分がどこにいたのか、何をしていたのか分からなくなってしまった…今日は言葉の切れ端に出会った日から、読んでからのこと、どうやって日常に戻ろうかと作戦を練るところまでを話していきます。

ああ、ここから抜け出せるのだろうか。

出会いは「市谷の杜 本と活字館」

東京の真ん中あたり、市ヶ谷にある「本と活字館」に行った時のこと。書籍の紙をたっぷり味わえる展覧会はもちろん楽しく会話も弾んで、最後は物販でおみやげを見ていました。

その中の一つ、ブックカバー付属のしおりの言葉が目に留まりました。

「何してるの、何を考えてるの、何か見ているの、何かしらべに来たの。」

下のほうに、宮沢賢治の「サガレンと8月」からの引用と書いてある。気になる…そのうち読もうとスマホにメモして、その場では終わりました。

これは未完の物語

知識欲も食欲もたっぷり満たした帰りの電車の中、あの言葉を思い出して検索したら青空文庫にありました。また、Kindleで無料公開されてもいました。

縦書きのKindleがいいやとダウンロードして開くと、とても短い。原稿用紙にして12枚ほどの未完の物語でした。これならば電車内で読み終えられるかもと、早速読みはじめました。*を境に2つの章に分かれ、それぞれ全く別のことを話しています。

1.自然界と人間界

1章は、著者本人と自然との会話だと思います。サガレンとは樺太のこと、北海道のそのまた北の海岸で、標本用の貝などを採集をしていると風が問いかけてきます。

「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」(中略)
「何してるの、何を考えてるの、何か見ているの、何かしらべに来たの。」
宮沢賢治「サガレンと8月」より引用

自分の返答もまともに聞かず、何度も何度もいうものだから、いらだってくる。なんにでも意味を求めるものでもない、そんなことは自然のお前たちのほうが分かってるだろと投げかけたところに、こんな返事がきます。

「おれはまた、おまえたちならきっと何かにしなけぁ済すまないものと思ってたんだ。」
宮沢賢治「サガレンと8月」より引用

主人公の胸の鼓動が自分のものとも重なって、そこから別の世界の入り口に立ってしまったようでした。自分がやってきたこと、意味と意志をもっていたはずの日々が、積み上げてきたものが、波にさらわれていきました。

自分は何の用でこの世界に来たんだろうか、何を見ていて、何を考えて、何を調べているんだろうか。恐ろしくなって、ここまでしか読めませんでした。

2.人間界と海底の世界

家に帰り、やっぱり気になり2章を読みました。

主人公のタネリは、母の言いつけを破ってある行動をします。すると、みるみる世界が変わって海の底に行きつきました。後悔しても遅いことに気がつきますが、もう新たな日常が始まろうとしています。

2章でも人間界と自然界(海底の世界)の境目に立ちます。未完の作品でここまでしかないので、先は分かりません。
しかしおそらくここから、一章にあったように自分が考えていることと、相手が自分に思うことの対比の物語が進んでいくのだと思うのです。そして、それは宮沢賢治の他の作品にあるような展開になっていくのかと思うと、また胸が痛んできます。

辛くなってきて、その日はそれ以上考えることはできませんでした。

2つの世界の境界線に立って

翌日に開いたのは、家に唯一あった宮沢賢治の本「注文の多い料理店」。巻末にある著者の生涯部分をさらいました。

すると、サガレンと8月は著者が27歳の頃、樺太に旅行に行った時の風景だということ、前年に妹を亡くして以降半年間、何も作品が残っていないことを知ります。

彼は妹がいってしまった世界と、のこされた自分の世界について考えていたのでしょうか。だからこの作品に足元が危うくなるような気配があるのでしょうか。そんなことを思いました。

きっとこれ以上考えないほうがいい。分かっていても、そこから何遍も読み返してしまいます。わたしは自分がやっていることの意味や意志について、どうしたらいいのか分からず、境界線の上に立って途方に暮れています。

この世につなぎとめておく必要性

わたしが普段やっていること(読んだ本や日常で考えたことについてここに書くこと)は、自分の中にどんどん入っていくような行為だと思います。やることで自分が安定して、大事なものが見える感覚があります。

はじめこそ、人に読んでもらうものだからと、構成や文章の体裁を気にしたりしていました。しかしだんだんとその意味を失い、感情を書き留めることがライフワークになって、そして今では書いているここに自分自身がいる気がしています。これは多分とても危ないことです。

わたしの場合は、人間界と内省の世界なのかもしれません。境界線に立って、この世に自分をつなぎとめておく必要性を強く感じました。

もちろん、現実で辛すぎる場合に、一時的に落ち着く場所は必要です。でもわたしが今確実にいるのは人間界のはずです。

この世につなぎとめるため、最近やり取りのなかった数人に連絡を取りました。一人では取り込まれる可能性が高いので、他者につなぎとめてもらおうという算段です。筋書きは変わらないかもしれないけど、足掻かないとまずい気がして、動きます。

ああ、今までどこかやさしさを感じていた宮沢賢治に、後ろからグンと強く引っ張られて、そのままやさしくトンと押し出されたような、ぐらっぐらの気持ちです。ここから抜け出せるのだろうか。