日々、なんとかやれてます、問題ないです。
ただ、なんとなく、いつまでもつかなぁとは思います。
そんな気持ちを考える手がかりが、いがらしみきお「誰でもないところからの眺め」にはあるのかもしれない。
「人間やめますか?それとも生き物やめますか?」と刃物を突きつけるような帯に目が留まり、買ったもの。東日本大震災後の東北を描いた作品だと分かり、受け止める勇気がなく一年近く本棚に眠っていた。
今回手に取ったのは、思ってもみない角度の価値観に触れてみたかったから。正直いうとこの本は、頭でわかっても心で理解することができないし、実践するようなことでもない。ただ、「ああ、漠然と胸にあった矛盾した気持ちとは、こういうことだったのかもしれない」というイメージが得られたくらいだ。
そして私が受け取った具体的なメッセージは「言葉があるから私がいる」ということ。物語の核心部分でもあるので、以下の感想はネタバレなんだと思う。読み進む前に、できたら読んでもらって、自分が感じたことをまとめた後に読んでほしい。まあ、しなくても全然よいのだけど。
人間やめますか?ー誰でもなくなる物語
あらすじを話すと、まず舞台は2014年5月の宮城県。東日本大震災から3年経ち、爪痕はあるが日常は戻ってきている。ニュースにならない程度の軽微な余震が続いており、それが関係しているのか分からないが、人々に異変が生じてくる。
いま、何をしようとしていたんだっけ。
なぜここにいるんだっけ。
認知症のような症状が年齢・性別問わず、ゆっくりと、次第に広がっていく。
そもそも自分とはなんだったのか。誰でもなくなることは果たして「異変」なのか。人々の変化を通じて、作者が問いかけている気がする。
生き物やめますか?ー人間らしさとは「言葉」なのか
意思の疎通は、思いのほか言葉に頼っているところが大きい。主人公と認知症の父との会話が忘れられない。
「いつまでこんなことやってるつもりだ」
「だったらなぜ逃げないんだ」「死なないところなんかあるのか?」
「どこへ行ったって死ぬだろ なのになぜこんなところにいる」いがらしみきお著「誰でもないところからの眺め」より引用
父の言葉だけ抜粋した。この言葉は私の胸にも届いて、ただ心までは入れられない。それはまだ、世の中にいたいからなのか?
言葉があるから私がいるのか
人は人と話して不安になり、自分と話して絶望する。そして人と話して安らぎ、自分と話して安堵する。「人」は「本」だったりもして、「話す」は読むだったりもする。そうして日々相互に確かめ合って生きている、電気信号のように。
それを手放すということ、この作品でいうと認知機能を失っていくこと。言葉でやり取りしていた相互通行を絶つ。自分が自分でなくなっていくのは、恐怖なのかどうなのか。読んでいくと、少しずつ「自分に帰っていく」ような感覚が芽生えてくる。
恐ろしくはあったけど、虚しさのほうが強かった。小高い丘で、海を見下ろしながらあてもなく風に吹かれるような気持ち。ただ、誰でもなくなった人々が、思い思いに着飾ることには涙がこらえられない。誰でもなくなったところに残った人間性に感じて、救いだった。
冒頭で、記事を読む前に「この本を読んで、自分が感じたことをまとめた後に読んでほしい」と言ったのは、人間性とはそういう行動に宿るのではないかと思ったから。
自分の感じたことはなんだったのか?言葉を探して選んでいく。それは、存在証明なのかもしれない。私が今日、ここに確かにいたっていうことを誰かに覚えておいてほしくて書いているのかもしれない。
「いつまでこんなことやってるつもりだ」
主人公の父の声が聞こえる。
(おまけ)この本は「atプラス」という思想誌に連載していたものらしい。そしてテーマは「遊動民」。いがらしみきおの思想のフィルターを通すと、こんな眺めになるのか…いまはただ茫然としている。