レフ・二コラエヴィッチ・トルストイ著「光あるうち光の中を歩め」を読んだので、感想を話していく。
あらすじ
ユリウスとパンフィリウスという2人の男がいた。幼い頃を共に過ごした2人は対照的な人生を歩む。人生の岐路があるたび再会し、議論する様子が描かれている。
ユリウスはいいところの坊ちゃんで、紆余曲折あるものの仕事や政治などそれぞれに成功を収めている。同時に悩みが尽きず、苦しみの中に生きている。
パンフィリウスはキリスト教徒で、教えにとても従順。地位も富もないが、日々に満足しながら仲間と共に暮らしている。
ユリウスは人生に失望するたび、パンフィリウスのいるキリスト教の門を叩こうと試みる。しかしそのたび、もっともらしい常識が立ちはだかる。果たして幸せとはなんなのか。ユリウスは何に光を見出すのだろうか。
一番に感じたのはもどかしさ
読んでわたしが一番に感じたことは、2人に対するもどかしさだった。
ユリウスには、よく知りもしない他人の意見でなく自分の心の声を大事にして、その時々の決断をしてほしかった。
パンフィリウスはキリスト教とその集落の長に盲目的過ぎるように感じた。「⚪︎⚪︎がいうには」ではなくて、教えを実践して得た知見がもっと聞きたかった。
解説によれば、トルストイはこの作品を自らの全集に入れたくないと言ったそうだ。この作品には納得がいっていなかったことになる。なので、あえてこのもどかしさについては深掘りせず、よい印象として残った「議論できる友情」について話していこうと思う。
議論できる友情
ユリウスとパンフィリウスは全く別の道を歩みながらも、幼い頃から晩年に至るまで対等に話していたのが印象的だった。
議論を重ねても2人の意見が一致することはなかった。しかし、異なる価値観を持った2人が辛抱強く相手の話を聞き、それぞれの信念を話す様には互いへの尊敬を感じた。
ユリウスは、パンフィリウスが話すキリスト教の教えに共感することが多かったが、作中ではキリスト教信者は迫害されており、時には殺されたりするくらい禁じられている。
心の奥底では求めているが、世間がそれを許さない。それでも、パンフィリウスの話を聞くと真理を感じる。揺れる気持ちは終わりがない。
2人共通の問い
「君はいま幸福かい?」
お互いに、この言葉を発する場面がある。パンフィリウスは迷える友の心を聞くために、ユリウスは疑心暗鬼な気持ちを友に投げかけるように。
はじめわたしは、これが禁断の質問に感じた。こんなことを聞かれたら、とたんに人生の品定めが始まる。少しでも不足した部分があれば、どんどん膨らんで不満が湧いてくるだろう。
ただ、読み進めるうちに、この言葉はもっと純粋な問いな気がしてきた。2人はもっとわかり合うためにこの質問をしている。お互いの幸せの価値観を洗い出して、どれを信じたいと思うのかを率直に議論している。
こんな議論をできる友達が、わたしにいるだろうか?
光あるうちに光の中を歩め
ユリウスは決断が遅かったと悔いる。老いてしまっては何も満足にできないとうな垂れる。
そこにかけられた言葉が「光あるうちに光の中を歩め」だ。いろんな解釈があると思うけど、わたしは「生きているうち、目的を定めて歩め」と捉えた。
キリスト教の教えは献身的過ぎて、俗世に生きるわたしには実践的に考えるのが難しかった。だけど、信心深く支え合うことで、根を張りつながる感覚が生まれる。こういう指針を共有できるのは、何より心強いことだと思う。
決断に遅すぎることはない。生きているうち、自分の心を信じて歩み始めることが大切だ。ユリウスとパンフィリウスのように、光はお互いに問い続けることで探すものなのかもしれない。
「それじゃ、なぜわれわれはそんな生活をするのでしょう?」
「なぜ自分でもよくないと思うことをするのでしょう?いったいわれわれは自分で自分の生活を変える力がないのでしょうか?」(p4)
トルストイ著「光あるうち光の中を歩め」より引用
本当にそう。なぜなんだろう。問いは続く。
【今日のレイアウト】内容まとめ
- 文字数:約1700文字
- サイズ:A5、見開き2ページ
- 文字の大きさ:10~12Q、見出し44Q
- フォント:A-OTF UD黎ミン、游ゴシック
ブログ内容を紙ベースにまとめる、という試みをしています。
話が長いせいで、A5サイズ1枚にまとめる目標はなかなか達成できそうにない。無理せず見開きで作ったらこれはこれでいいなと思ったり。いろいろやって形を見つけていこう。
ああ、誰かに正解を聞きたい。だけどこれは趣味であって、正解とかなく好きにつくればいい訳で、自分で探ることにきっと意味があるんだよなあ。