(基本ネタバレしていますのでご注意ください)
アニメ「チ。」全25話、終わりましたね。私は日曜夜にネトフリ配信を見たので約3日ですか、ずーっと頭の片隅で考えながら過ごしてました。
最終回を一度見た時は、私も大方の視聴者と同じく「あれってラファウの必要ある?」と思いました。しかし、再び見て考えて、やっぱりあれはラファウでなきゃだめだよな、と思い直しています。
彼が「知りたい」とどうしようもなく思ってしまったこと、それは肯定されることなく弾圧されてしまった。読者にはその一章のストーリーが頭にこびりついています。
私たちがあの時美しいと思った「好奇心」というものは、ともすればバケモノにもなりうる。そういうことを、最短距離で、最も伝わる方法で知らせてくれたのがあの青年のラファウだったのだと思います。
地動説の話は結局、宇宙猫状態(コペルニクスの本も読んだけど変わらなかった…バデーニの説明でちょこっと分かったくらい)でしたが、この物語のテーマは私にとってすごく重要なことだと自分の直感が言っています。
そんなわけで、今日は最後の2話分を自分用にまとめながら感想を話していきます。間違ってるかもしれないし、分かってなくて話してるかもしれないですが、あくまで私の考えということです。
- 好奇心の根源「タウマゼイン」
- 「好奇心」と「疑う心」
- 「好奇心」は暴走する
- 信じる、疑う。自分だけで回すのは最も危険
- 「疑って進んで、信じて戻って」一アルベルトの選択
- 好奇心というバケモノとの付き合い方
好奇心の根源「タウマゼイン」
ギリシャ語の「タウマゼイン」とは、知的探究の根元にあるもの。この世の美しさに肉体がしびれ、それに近づきたいと願う気持ち。簡単にいえば「ん?」と思うこと、とありました。
私の場合だと、
- 思いがけない親切に触れた時の、人としての美しさへの感動
- 読書や交流を通して気づく、知りえない価値観・考え方への驚き
- 日々書くことで、自分の中にある知らない感情や思考に出会った時の不思議な感覚
こういうものに心が震える、そしてより深めたり近づきたいと願う、あの心だと思います。
「好奇心」と「疑う心」
好奇心や探究心は、知性と密接な関係があります。青年ラファウは、溢れる知性で少年のアルベルトを励まし、自分の気持ちを「信じろ」と導きます。いつの時代にも真理を追い求め、熱意を惜しまない彼の姿には、それこそ心が震えます。
それに対して、理性的な立場として登場したアルベルトの父は、役に立たなければ学ぶ意味はない、そして「疑え」といいます。知りたい気持ちをセーブする大切さが分からないアルベルトと同じで、私には受け入れがたいものがありました。
「好奇心」は暴走する
しかし、好奇心は時に怪物化し、暴走することがわかります。哀しいのは、目的のために手段を選ばないことを、信じて疑わない純粋な心です。
倫理的におかしくなっていようが、そんなのは関係ない。ただ、知りたいからそうするんだ。真っ直ぐなその心が分かっているからこそ、途方に暮れる気持ちになりました。
理性的に説明していても、こじつけの理論で押し通そうとしているのが分かります。ものはいいようですが、そういうことではないのです。
好奇心のバランスを取るには、どうしたらよいのでしょうか。
信じる、疑う。自分だけで回すのは最も危険
「信じろ」と言ったラファウ、「疑え」と言った父。どちらも選ばないことで自分を守ったアルベルトですが、どちらも選ぶという選択肢が現れます。
(ここから飛躍)しかし、青年ラファウにも「信じる・疑う」の思考はあったと思うんです。生まれが複雑で、恵まれていたけど不遇なことも多かった。自分の中で思考を巡らせて、疑念が湧き起こるたびに自分の信念で前進した。そうして学問の道、探究の道に進んだ。
ただきっと、賢すぎるがゆえに、ここを大方一人で進めた気がします。だから倫理的な矛盾に気がつけなかった。ここが彼の弱いところで、最も危険な部分だったと感じました。
「疑って進んで、信じて戻って」一アルベルトの選択
過去を振り返ったアルベルトと、その過去を聞いた司祭(おそらくレフ審問官)の話を聞いていると、人と話すことで別の視点が得られる=前提を疑う元になる、ということが浮かんできます。
疑念と信念。
肉体と魂。
理性と信仰。
哲学と神学。
それらの矛盾と混沌を受け入れ、両立する。それは「考える」人間だからできることであり、一生揺れ動くもの。
司祭の言葉一つ一つが、アルベルトを透かして私にも下りてきました。
僕たちは足りない
だから補い合える
そうじゃなきゃこの世界には挑めない
今までの壮絶な経験を通して、内に籠るのではなく、周囲との調和を選ぶ。この結論に至るアルベルトは、聡明で、胆力があり、人を導ける人だと思います。人を導くことが彼のアレテー(あるものが本来もっている機能を最大限に発揮すること=個々人それぞれが活きる分野と捉えました)だったのかもしれません。
好奇心というバケモノとの付き合い方
この壮大なテーマをずっしりと受け止めた私はといえば、好奇心のバケモノが今日も元気に育っています。役にたつ/ただの無駄、そんなのは関係なく、ただ知りたい/やってみたいで動いています。
日に日に自分の気持ちが強く揺るがなくなり、迷いも薄れました。この時が一番危ない気がします。他人の意見をねじ伏せてしまいそうで恐ろしい。言葉ばかり達者になって、自分の都合だけで物事を考えるようになったら人としては終わりです。
なんとなく気がついていますが、私は全部自分でやるのが好きです。誰かと共同でやるのも楽しいけど、本当に深めたい分野は一人で突き詰めたい。だからこうして今日も一人で書いているわけだけど、この深める方向性がまずかった場合に、青年ラファウと同じ傾向があるかもしれません。なぜなら、今でも彼の魂が変わらず美しいと思っているから。
これを教訓とみて。アルベルトの視点をもって。このバケモノと共に日々の活動に勤しみたいと思います。
(おまけ)ここから考えた、「知性と理性」「好奇心と疑う心」これらを絶えず行き来することで最終的に身につくのは「悟性」なのではないか、という内容をまとめてみたかったですが、技量が足りず…未来の自分に託します。