先日「詩のこころを読む」という本を読んで茨木のり子についてもっと知りたくなり、図書館で2冊借りてみた。
貸出期間の2週間をたっぷり使って、家のことをしている合間に読んでは考えていた。自分の柱について。この人の柱は強そうにみえて、きっとそんなことはない。自分の柱を守るために詩を書いていたんじゃないかなと思ったりしていた。
茨木のり子の家
1958年、32歳の時に建てて亡くなるまで住んでいた家の本。写真が多めで、詩はちょこちょこと入る程度だった。
2人暮らしにちょうど良い大きさで、家具やインテリアがそのまま残っている。物があるべき場所に納まっていて、インテリアも意味をもってそこにあるような規律を感じた。
反対に、玄関に通じるアプローチや庭の感じはゆったりとしていて、季節が移り変わるたびにここでのんびりできたら気持ちがよさそうだ。わたしの終の棲家はどこになるやら…
ポートレートに写る凛とした姿
谷川俊太郎が撮ったという著者の連続写真がずらっと並ぶページがあった。
凛とした力強さが美しい。
詩から感じる強くあろうとする心みたいなのが、風貌にもあらわれていると感じた。
気になった詩2編
写真がほとんどで、詩は10編だった。わたしは2つの詩が気になった。
「時代おくれ」より一部抜粋(P32)
そんなに情報集めてどうするの
そんなに急いで何をするの
頭はからっぽのまま
(中略)
はたからみれば嘲笑の時代遅れ
けれど進んで選びとった時代遅れ
もっともっと遅れたい
どうもかみ合わなくて、空回ってる感じが否めない自分の今の状態に沁みた。
必死になりすぎて、たぶん深呼吸が足りない。進んで遅さを選びたい。
「倚りかからず」より一部抜粋(P83)
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
このあと、できあいの「宗教」「学問」「権威」と続く。わたしが日々書いている時の感覚は、だいぶこの詩のイメージに近い。
「みんながそうだから」もう、そういうのやめようか。自分で考えて、自分がスタンダードでいいじゃないか。そういう柱がほしくて、こうしていまも書いているんだと思う。
食卓に珈琲の匂い流れ
こちらの本にはたっぷり22編おさめられている。
くくりとしては、生活の中でふと感じる心の揺らぎ、思考が過去に未来に動いている時を切り取ったものが多い印象だったかなあ。
印象に残った詩2編
ここでも、印象に残った詩を2編紹介する。
「記憶に残る」から一部抜粋(P42)
最近の獲物といえば
オクタビオ・パス氏の
生きのいい一閃ー今日 詩を書くということは あまりにも
商業主義的になった社会への一種のたたかいでもある
それは言葉の質の低下から守るようなもの
記憶に残る言葉はなんて少ないのだろう、という著者の心をいま満たしている言葉がわたしにも響く。「言葉の質の低下」には思うところがあって、いつもだらだらと意味があるのかないのか分からない言葉を集めてなんになるのだろうと虚しくなっていることも多い。
詩にはすき間がたくさんあって、その中で考える時間がもらえるところがいいな。余計な補足とか、説明しすぎることに対して、どうにかしたい。
「問い」より一部抜粋(P91)
ものすべて始まりがあれば終りがある
わたしたちは
いまいったいどのあたり?
〆切がないとタスク消化に張りが出ないように、自分の終りが分からないからいろんなことをなあなあにして生きちゃってる部分があるよなあ。
もっと大きくみたら、人類も同じだ。わたしたちは、一体いまどのあたりにいるんだろう。
揺れ動く感情から戻ってくるための詩だった?
茨木のり子の詩には、自分に対する戒めのような厳しさを感じる。
読んでいく中で、著者が行っていた詩を書くということは、振り子のように揺れ動く感情を、自分の柱まで戻していく作業だったのではないかと考えていた。
柱は、自分の指針だ。これは身の回りのものに宿るだろう。家具・インテリア・食器などが柱の象徴的な存在ということ。
口にする言葉や、紡ぐ文章は柱を強固にするためのもの。もしくは、柱まで戻ってくるための道しるべ。繰り返すことで、さらに強く、帰り道も明確になる。
その繰り返しで大樹のような自分を象徴する"らしさ"ができるのではないか。なんて考えたりしていた。
柱は多分もうあって、
わたしの柱について話そうと思ったけど、そう簡単に言葉にできるもんでもなさそうだ。こういうのはもう既にあって、傍から見ている人のほうが分かるんだろうなー、きっと。
ひとまず…本の山をかき分けてノートPCを開くような生活じゃ、柱はちっとも見えてこないだろう。ほんと、最近の生活がぼろぼろなので整えなければ…行ってくる。
急がば回れ、取捨選択、進んで選ぶ遠回り。
もっともっと遅くなって、わたしの柱を眺めたい。