BOOKS:LIMELIGHT

読んだ本を、感想とともに紹介していきます。

茨木のり子が誘う詩の世界ー「詩のこころを読む」を読んで 

友人が言った「自分のために描いている」という言葉に心動かされ、わたしが書きはじめたのが詩だ。

創作ってなんとなくエンタメ感が強いと思っていて、誰かに何かを届けるためにっていうのが根底としてあった。でも友人は描いた絵を「自分のために描いていて、どこかの媒体に上げたりとかすることに興味がない」という。なんか…光が差すような一言だった。

帰っていつものブログ作業をする前に、ちょっとだけ書いてみた。都会でだましだましやってる自分への自省の句、という感じで、なんとなく詩っぽくなった。書いたあとお風呂で余韻に浸っていると…どこかわからない部分が癒えた感覚がある。ん、これは心と体に良いぞ…!

以来、ほぼ毎日のように書いている。

ブログをやっていると過去の自分の文章に救われるってことがあるのだけど、詩や絵みたいに別のかたちにすることにも同じ意味合いがあるのだろう。

長くなったけどそんなことがあって、長い間家に積んであった古い本「詩の心を読む」を掘り起こした。

あらためて私の好きな詩を、ためつすがめつ眺めてみよう、なぜ好きか、なぜいいか、なぜ私の宝物なのか、それをできる限り検証し(中略)情熱込めてるる語ろう、そしてそれが若い人たちによって、詩の魅力にふれるきっかけになってくれれば、という願いで書かれています。
茨木のり子著「詩のこころを読む」より引用

そう若くもなくなってきたけど、今のわたしにはぴったりの本だった。

自然と人生になった好きな詩たち

茨木のり子が書いた詩は「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」の部分だけわたしの引き出しに入っている。取り出すたび、背筋がしゃんとする言葉だ。

著者は「詩の心を読む」を編むにあたり、頭の中に浮かんだ思い出深い詩たちを並べ替えてみたところ、自然と人生の過程のようになったという。

「生まれて」「恋唄」「生きるじたばた」「峠」「別れ」、5つの章のうち、今のわたしは3つ目かなあ。そんなことを思いながら読み進めた。

こころに残った詩 

5つの人生の過程に沿って、わたしのこころに響いた詩を紹介してみよう。
一応、記事に対して「従」の存在であれば、詩を全文引用しても著作権上問題ないみたいなんだけど…どうも全文引用することに抵抗があるので、一部分だけ引用する。

【生まれて】I was bone 吉野弘

ー やっぱり I was bone なんだね ー
詩集「消息」

英語を習い始めた自分が、身重の女性を見て思ったこと。人は自分の意志で生まれてくるのではなく、生まれさせられるんだ。だから、I was born. 受身形。

その発見を何気なく父に話した先の返事は、ずっしりと重たく、でもこれは命の重みなのだ。息子による「I was born」の発見は、父にも同じだけの重みを残しただろうと思う。

茨木のり子は、この詩を作るのに10年はかかっただろうと推測する。確かに、するすると湧き起こるような詩ではない。

最近分かってきたのだけど、思い出って歪んでいく。それに愛着が湧くこともあれば、がく然とすることもある。

作者は頭の隅にずっとある、この瞬間のことを忘れないために詩にしたのだろうか。なんて考えたりする。

【恋唄】みちでバッタリ 岡真史

でもぼくにとって
これは世の中が
ひっくりかえる
ことだョ
詩集「ぼくは12歳」

「ぼくは12歳」という詩集の中にある一編から。道でバッタリ出会った、おそらく恋なんだと思う。火花のようだったか、花の香りのようだったか、とにかく世の中がひっくりかえっちゃうような体験だったんだろう。ほろ苦で終わるけど、読むとなんだかくすぐったく、可愛らしく思える。

しかし、作者は12歳で自ら命を絶ったとあった。自分が自分でなくなるような「ひっくりかえる」体験の連続は、彼にどんな景色をみせてしまったのだろうか。

ほかに、「僕は19歳」という詩もあるという。たくさんのことを感じて紡いだ彼の詩を、もっと読んでみたい。

【生きるじたばた】夕方の三十分 黒田三郎

夕方の三十分
僕は腕のいいコックで
酒飲みで
オトーチャマ
詩集「小さなユリと」

前章の恋唄でも、率直な人柄が透けてみえるような素敵な詩を読ませてもらった。その恋は成就して父となり、小さな娘に「オトーチャマ」と呼ばれるようになっている。

母が不在の間、ともに過ごす三十分。バタバタして騒がしいけど、最後の余韻がものすごく美しい。

何気ない1日の中のひと時を切り取った詩は、こうして作品になることで未来にずっと残っていく。それがなんだか嬉しくて尊い。

【峠】老後無事 川上肇

たとひ力は乏しくも
出し切つたと思ふこゝろの安けさよ。
「川上肇詩集」

経済学者だった作者は、詩人としての一面もあった。六十の手習いではじめたみたいだけど、通ってきた道が表れるのか、胸に迫るものがある。

この人の詩が好きなのは、どこか絶対に揺るがない部分がありそうなところ。政治的な問題で検挙されて、獄中で書いたものもあったみたいだ。そういう背景を知ってか知らずか、そう思った。

羨む人は世になくも、
われはひとりわれを羨む。

こんなふうに自分を言える日が来たらなあと思う。

【別れ】幻の花 石垣りん

そうして別れる
わたしもまた何かの手を引かれて。
詩集「表札など」

今年も咲いた庭の菊を見ながら、作者は過去に咲いた菊を見ている。

咲いては枯れる様子は、何かに手を引かれているように感じて、自分を重ねる。

解説する茨木のり子は、人間は幻の花のようだという。そうかもしれない。わたしの手を引くのは人、動物、先祖だろうか?特定の何かが思い浮かばないくらい、いろんなものに支えられているなあ。

実は今も、手を引かれて歩いている最中なのかもしれない。そう思うと、別れに向かう旅路も悪くない。

詩の世界の導入として、視界が広がった

この本は、個人ブログを読むような気持ちで読んだ。詩人として生きる著者が、自分の感性に触れた詩を紹介してくれるブログ。詩の世界へ誘い込むような構成で惹きこまれた。

紹介の仕方は入門編という感じで、詩ってどういうものなのかな〜と漠然と思っている人にはぴったりだと思う。

この本を読んで、たくさんの詩人たちに出会えた。詩はその人の内面だったり、その時々の人生模様がもろに出てくるものなんだな。そして、思いのほか自由で、たっぷりと見せることも、一言で刺すこともできる。短歌や俳句のように縛りがないぶん、個人の裁量にゆだねられている感じがする。そこが気楽で、難しくもある。

いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。いい詩はまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの感情をやさしく誘いだしてもくれます。どこの国でも詩は、その国の言葉の花々です。
茨木のり子著「詩のこころを読む」より引用

わたしが書いたものはたぶん恐ろしく拙くて、でも確かに自分の心がほぐれていく感覚があった。言いたかったことや見えている世界を、それ以上でも以下でもなく、淡々と描けるようになれたらいい。

友人が何気なく話したことで、わたしはこんなところまで飛躍しちゃったな。なんだか感謝している。今度コーヒーでもごちそうしよう、ありがとう。この本にも、ありがとうを添えよう。