二人の世界では「無銭優雅」でも、はたからみれば「呑気な貧乏人」なんだろうか(いや、そんなこともないと思う!)読みながら気持ちが右往左往する、刹那を生きるキリギリスな恋物語だった。
そしてもう、これはわたしの人生か?と思うほどに、中年に差しかかる自分にリンクした小説だった。
花屋で働く時雨(じう)と塾講師の栄はともに40代。「心中する前日のつもりで恋をしてみないか」がテーマの、二人の恋の日常が綴られている。
日常に寄り添う恋愛小説の引用たち
栄は読書家で、時雨もつられて本を読む。そして二人の日常の中に引用として登場する恋愛小説は、気になるものだけでもこんなにある。
- 風立ちぬ(堀辰雄・新潮社)
- 外科室(泉鏡花・岩波書店)
- 富士日記(武田百合子・中央公論新社)
- 逢う時はいつも他人(エヴァン・ハンター・角川書店)
- 星から来た(町田康子・新潮社)
- 赤い髪の女(ヤン・ウォルカーズ・角川書店)
- わたしが・棄てた・女(遠藤周作・講談社)
- 死臭アカシア(草間彌生・角川書店)
- 花夜叉殺し(赤江瀑・講談社)
数えてみたら21冊もあった。本には共通点があって、それは「死別」が含まれていること。恋愛に関するもの以外もあるようだけど、見事に全然読んだことがなかった。
なかでも壷井栄の「あたたかい右の手」は二人の関係をより深くした作品で、一番最後に引用されている。
死んでしまう登場人物が「慈雨」で作者が「栄」という奇妙な偶然もあり、二人の関係は死を意識することでぐっと深くなる。
舞台は西荻・吉祥寺の狭い界隈
栄は乗り物酔いが激しく、この界隈から移動することができない。慈雨は実家の調布から吉祥寺に通い、栄は西荻の古い日本家屋に住んでいるため、自然と物語はこの付近の話に終始する。
それが二人の狭い精神性にリンクして、どこか幼さが残る大人の恋が描かれている気がする。
大人のイタい恋…いや、恋したら大概こんなもんだった
この二人、高校生みたい。勝手に自分たちで盛り上がっちゃったり、当人にしか分からない冗談を飛ばしあったり。家の中でやる分にはいいけど、外でやってたら相当イタい。
実はこういう人いっぱいいると思うし、実際わたしも似たようなものだ。大人な恋なんてものは小説や映画の中にしかないくらいの幻想で、恋をしたら舞い上がっちゃうし視野は狭くなるもんだった、と読み進めるうちに思い出す。自分がもっと若いときに読んだら、大人の恋に幻滅して読むのが嫌になるかもしれない。
しばらく一緒にいればどうしても将来のことがチラつくし、周囲の目、結婚なども気になってくる。しかし二人にはその気配はない。おじいちゃんおばあちゃんになっても、とか少し話すことはあるけど、どれも現実味が帯びていないのが印象に残る。二人に流れる「暗黙の了解」でそうなっているんだと思う。
「心中する前日のつもり=今日を一緒に味わい尽くそう」と受け取った
責任も大したお金もない二人は、小さな世界で互いを見つめあい、不確かな未来ではなく目の前の一瞬を生きている。
栄が言った「心中する前日のつもりで恋をしてみないか」は、わたしなりにかみ砕くと「未来、将来、とかじゃなく、今を一緒に味わってみないか」という口説き文句なんじゃないかと思う。
二人は、アリとキリギリスでいえば圧倒的にキリギリスだろう。栄の提案は無責任にも感じるし、慈雨は楽なほうに流れていく安易な人に見えるのかもしれない。大人気ないし、みっともないのかもしれない。
だけど、この二人をみていると、すごく「生きてる」って感じがする。
日々お互いに、今日あったこと、考えてることを話したり、本を通じて思ったことを話したり。そういうのって、他の何にも代えがたいしあわせや生きがいなんじゃないかなと思う。
要は塩梅だ。わたしは心配性なので、正直、終始これでは不安で仕方がない。
一日・一週間・一年単位で区切って、その時々に合理性のある時間を確保して将来に備えよう。残りの時間は、わたしは全部この本みたいに大切な人と日々を慈しむことに使いたい。
やっぱりどんなに年をとっても、高校生の時のようなまっすぐに日常を味わうことはわたしにとってすごく大切なことだ。もちろん、最後の慈雨のように、ある種の覚悟を持ちながら。それが大人の恋愛だと再認識した。