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読んだ本を、感想とともに紹介していきます。

ビジュアリストの読書観。「言葉を離れる(横尾忠則著)」レビュー

えらい時間のかかった読書でした。1ヶ月くらい一緒に過ごしてたかも。多少ムキになって読んでいた感はあります。

言葉を信用しない、ビジュアリストの読書観。文章に埋もれることが幸せなわたしにとっては、物事の捉え方の違いをこれでもかと味わえた本でした。

あらすじというか、多分こんな本

ユリイカで2011年~2014年の間に連載していたエッセイ。連載時の題は「夢遊する読書」。2016年講談社エッセイ賞受賞作。
著者は30代後半頃まで読書を必要とせず、実際ほとんどしてこなかったという。言葉という非現実的/観念的なものよりも、肉体的な感性を信じる著者が語る読書観。過去を振り返りながら思索し、言葉を離れる境地となってもなお、紡ぐ。
言葉とは、文字とは、読書とはなんなのか?

言葉はまやかし

・言葉、文字、活字に興味がないというか(中略)言葉を信じていなかったのかもしれません。言葉はどこか虚しいものものと考えていたのかもしれません。

・ぼくは言葉ほど信用できないものはありません。言葉はご都合主義的にいつでも嘘を語ります。

横尾忠則著「言葉を離れる」より引用

この本に一貫しているのは、アンチ勢と言わんばかりの言葉や読書に対する厳しい目です。一般的に読書は「有益」で「役に立つ」とされていますが、著者の精神世界では真反対といっていいほどの扱いになっています。

では著者の世界では何を大切に扱っているのか。それは「肉体」です。

体験にまさる感性の学びなし

著者は幼い頃から人との縁が深いように感じます。日本デザインセンターの面々や三島由紀夫など、出会う人出会う人が偉人のような人たち。それもガツガツして得た縁じゃなく、自然とやってきたような縁です。人間性や作品の魅力が引き合わせていたのだと思うけど、この部分はいずれ探っていくとして。

読書について著者は、「所詮他人の経験を疑似体験で夢中夢を見ているのとそう変わらないような気がする」と話します。作家との交流の中で、その人の著作を読まないままに交流していたけれども、接する中で十分に得るものがあったと。読書よりも現実での体験が感性を磨くということです。

夢の中の夢、とは手厳しい。ただ、誰だって著者のように創作主や作家の友人がいるわけではないので、つてがないわたしは、やはり作家のエッセンスを感じるために読むことになりそうです。しかし、なぜその人の本である必要があるのでしょう?

物知りや博士になるよりもセンスのある人間として、知性と区別される悟性によって感性や豊かな感覚世界で遊びたい

横尾忠則著「言葉を離れる」より引用

有名とされる作品を読まなくたって、自分の周りの人たちを現実世界で見て聞いて、肉体で感じることこそが重要なのかもしれない。もしかしたら、それだけで十分に実りある人生なのかもしれない。などと、うだうだ考え始めてしまうのでした。

それでも読む時は来る

著者には、この本を読む限りで2回、深く読書をするタイミングがあります。これはわたしにとっての少しの救いがある部分です。

1度目は怪我による長い休業、2度目は画家転身時。
怪我の時は仏教に関心が湧き、仏教書を取り寄せて深くのめり込んでいく。この時の行きついた先は「旅」と「悟り」でした。
画家転身時は、一つのテーマに対して広く、たくさんの本を読むことをしていました。そしてこの読書は最終的に「絵を描くこと」にたどり着いたと思います。
一冊を通してみると、著者の読書傾向は結果的に「行き詰まった時の突破口を探すための読書」だったのではないでしょうか。

1度目も2度目も、読んだ先に行動があり、いろんなものを巻き込んで著者のダイナミックな人生に広がっていきます。自分の中に何か一貫するものがあるけれども自信がない、そんなときの根拠探しだったような気がします。

そのくらいこの人の根っこはまっすぐで迷いがなくて、本を読まずとももう出来上がっているような感じです。

ビジュアリストの見える世界

著者が言葉について考える時、欠かせない人間は三島由紀夫のようです。この本では三島由紀夫との交流を割と頻繁に回想していくのですが、ビジュアリストについての話が印象に残っています。

三島由紀夫曰く、「ビジュアリストは程度が低い。しかし独特の悟りを得ている」と。自分が長年苦労して探求して得た悟りのようなものを、ビジュアリストは本人の自覚なしにすでに得ていると。

理論だてた筋道なしに、もう持っているというのだから面白くなかったでしょう。しかし著者は書物などからではなく、人から見たら遊びのような自然や人との触れ合い、肉体的な学びから体得していたのだと思います。

本当に言葉を離れていく

この本の驚くところは、最後に本当に言葉から離れていくところです。本人の意図しないものではありますが、この後いったいどうなってしまったのか…?!気になる終わり方でした。

2023年の暮れごろに、東京国立博物館で「横尾忠則 寒山百得」展 があったんですよ。昔の中国の詩僧「寒山」と「拾得」を、横尾忠則が独自に解釈して再構築するという展覧会…行こう行こう、と思うままに繁忙期が来て行けず。この展覧会で、言葉を離れた先が体感できたと思うんですよ、行けばよかったな…悔やまれるなあ。

しかしながらわたしは、横尾忠則の文章はすごく好きなのですが、作品に対してはなんのこっちゃ全然分からないというのが本音です。

本人は言葉を信じないで絵を描くことに命を注いでいるのに、わたしはこの人の文章がとことん好き…皮肉なものだなあ。

自分はどうだろう?読んで、動いて、進むほかないか

最終的に、著者は言葉についてよく分からないと結論付けたうえで、やはり信用はしていないと話します。そして必要なかった、生活必需品ではなかったと続けます。

わたしはどうだろう。ひょっとして著者のように「読んだ先にある行動」に行くために、いまあれこれ読んで思索しているのかもしれないですよ、ほんとに。

まだよくわからないので、これからも読むほかないです。肉体的な活動もしましょう。途方に暮れているというよりは、わくわくとした冒険気分です。

行動の伴わない精神世界は非常に危険でもあるのです。

横尾忠則著「言葉を離れる」より引用

肝に銘じつつ、読んで動いて、進みましょう。

言葉を離れる (講談社文庫)

ちなみにこの独特な絵は、ルネ・マグリットの「従順な読者」という絵だそう。終盤はわたしもこの顔になった。言葉から離れるってそういうこと…!

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