いつかのわたしが買った小説、西加奈子の「おまじない」を読んだ。著者の作品は初読みだった。30ページくらいの短編が8つと、巻末には長濱ねるとの対談が12ページ載っている。それぞれの物語のイラストは、著者本人が描いているらしい。
まあもう今日に始まったことじゃないんだけど、本の感想をまとめるのにかなり苦労した。今回時間がかかったのは、珍しくあんまりハマらなくて、珍しく最後まで読んだ本だったから。
大体ハマらないとその先全く進まなくなるので、自然とレビューは書かないし自分の心にも残らない。でも、今回は最後まで読めたし好きな部分もある。だけど決定的に何かがハマってない。面白い。
読んでて思ったことは、というかとうとう思ってしまったことは、自分が古い人間になってしまったのかなーということだった。
感情や情景を表現する時の言葉のチョイス、言葉を繰り返したり、かっこ書きで補足したりの手法が、結構独特?今っぽい。
ズレを感じるたび、あ、自分狭くなってるな。柔軟さが足りないぞ。と言い聞かせるうちに、あっという間に読み終えてしまった。
とはいえ、とはいえです。心に響いた物語はありました。この作品が好きな方、ご安心ください。それでは話していきます。
「あねご」
短編集の中で1番胸に迫るものがあった。夜の店で働く女性の話。きれいどころではなく、いわゆるお笑い担当の人なんだけど、そこにたどり着いた経緯がしんどい。でもこれ、身に覚えがある。
お酒に酔って、馬鹿をやって、笑いが起きて…その場は果たして、本当に盛り上がってたのだろうか。
「本当に、見てられない。」
西加奈子著「おまじない」より引用
最後のたたみかけの内省は、彼女にどう影響するだろうか。影響してほしい。
まだ戻ってこれるよ!と呼びかけたくなったけど、わたしだってそっち側かもしれない。見てられない。と内心で思われるのは辛い。何より、根底で自分が自分に対して思ってるのが最も辛い。
「孫係」
おじいちゃまが、所用で娘の家にしばらく寝泊まりすることになった。主人公の孫は、なんだか変わってしまった家に落ち着かず、学校生活にもなんとなく疲弊している。ふとため息交じりにだれもいない我が家で本音を漏らすと、おじいちゃんにそれを聞かれてしまった。
そこからがもう楽しい。おじいちゃまと孫は秘密を共有して仲が深く濃くなっていく。家族も安心、自分たちも気持ちが楽な、ウィンウィンの関係。
こんな風に周囲との調和を保ちながら、生まれてくる負の感情を消化できる仕組みを築いてきた、おじいちゃまおばあちゃまの仲には憧れる。
たいてい負の感情は胸の内に収まることなんてなくて、だだもれになってしまうものだから。自制しつつその時々の役割をこなしながら、心許せる人にだけ時折負をみせる。
なんとも合理的に明るい気持ちになった。わたしはこういう、負の感情を負でもって正に変えてしまうような精神の作りかえが大好きだな~。
ママがおじいちゃまの肩に手を置いたとき、ふと思った。もしかしたら。
西加奈子著「おまじない」より引用
大事な人を大切にするために、こういうやり方もある。感じた毒をただまき散らすんじゃなくて、こういうスマートさがほしい!(まだむりそう!)
「ドブロブニク」
小さな頃から映画が好きで、大学の頃は演劇部、卒業後は仲間と劇団を立ち上げ、広報として働き詰めて20年。休暇をもらった主人公は、今までの20年はなんだったのか、異国の地で振り返る。
わたしも「自分劇場」をかつて日々繰り広げ、そして最近また再演しはじめた人間なので、この主人公には好感と共感となんだろう共鳴?いろんな思いがこみ上げた。
心の劇場主というのは思考が明るくないのかもしれない、こんなに好きな気持ちに素直なのに。それとも思考が明るくない方向にぐるぐる巡ると、劇が開演するのだろうか?
とにかく今までの主人公の日々は、本人が思うよりずっと輝いていたと思う。いま自分には何もないと思っているのかもしれないけれど、好きなものに寄り添って駆け抜けた日々に悔いはないでしょう?と登場人物になって伝えたくなる。けどこれは言葉にしてもだめだよな。主人公は物事への気づきを演劇・映画から得てきた人なのだから。
私は映画を観るために席を立った。
西加奈子著「おまじない」より引用
人生は流れ流れてどこに行くかは分からないけど、一旦流れから離れて、外から眺める意味のようなものを感じた。
この違和感すらも研究対象
あとは「いちご」では変わった自分と変わらない浮ちゃんとのことに、「マタニティ」は妊娠と世間体とのはざまで揺れる心情に、「オーロラ」は終わりかけと始まりかけの気持ちに、それぞれ思うところがあった。なんだ、8話中6話も心に残ってるじゃないか。もう立派に好きなんじゃないのか?自分。
とはいえ違和感があったのは本当の話で、あまりハマらなかったのが本音ではある。
しかし文章にあんまり好き嫌いをつくりたくないなぁと思う。なぜなら、文法上のことを除けば表現に明確な正解なんてないし、伝わればそれでよいのだから。
この書きかたは気に入らない、こっちのほうがと思った瞬間に自分がものすごく小さく狭い人間になりそうな気がする。できたらどんな話も、どんな語り口調も、人それぞれ感を楽しんで味わっていきたい。
前の職場の先輩に教わったことだけど、アニメには「3話までは切るな」という格言?があるらしい。切り口を変えながら3話までにその作品の全体像を表現しているので、1話見ただけでこれは見なくていい!と判断するのは早すぎるという話だ。読書にもこれがいえるんじゃないか。
それに感受性というのはその時の状況・体調・気分などいろんな要因で感じる量が変わる。今回だけで何かを決めつけちゃうのはやっぱり違う。たまたま今回は波長が合わなかっただけかも知れないんだから。
Amazonレビューをみたところ、物足りないとしているレビューがチラホラあり、それをみるに、「サラバ」「炎上する君」がすごく良かったと。読みましょう読みましょう。もしまた何かのズレを感じたとしても、読んで感じた違和感さえも、わたしの研究対象となるのです。
是か非か、よくわからない感想になってしまった。こんな気持ちになった記念の記事。こんなに語れちゃうくらい、この本の持つ力は大きかったということなのかな。