佐藤愛子著「死ぬための生き方」を読んだ。和田誠の装丁が決め手で手にとったこの本には、なかなか聞けない大人の本音が入っていたように思う。
物事に対して自分と世の中のものさしで測り、考えを深めて、切る。この人の切り口は毒が強めで、でもこの毒を待っている人がたくさんいるから、語り続けているのだろう。
わたしたちに決まっているのは、最終的に死ぬことくらいだ。その覚悟をもって、自分ごとで考えて生きること。気が引き締まった。
ざっくりと、こんな本
「こんな⚪︎⚪︎もある」という括りで書かれたエッセイ集。5章構成で、33編収録されている。⚪︎⚪︎に入るのは以下のような内容。
- 人生(病院、日記、老い、善悪など)
- 愛し方(結婚、離婚、価値観の相違など)
- 見方(魅力、好き嫌い、人の目など)
- 知恵(育児、教育、教養など)
- 死に方(作家についてー平林たい子、色川武大、松本清張、川上宗薫)
ただ素直に生き方の話をしているわけではない。生活のなかで著者が感じた違和感に着目して、独自の解釈で切り込んでいく。日常のエッセイからにじみ出る人間哲学…という感じ。
たまに、それはだいぶ偏ってるのでは?と驚いたりするけど、共感するものもある。誰かには必ず届くようになっているということなのかな。
死なないために生きていないか?
一番心に残った川上宗薫との話は長くなりそうなので次回にするとして、ここでは読後によく思い出している「私につけるクスリはない」という章について話す。
著者は、身体に不調が表れたらすぐ病院、すぐ処置と、当たり前になっている価値観に牙を向く。
ただ、"死なない"ために生きていないか?
割に合う生き方ばかりを選んでいないか?
これは裏を返せば、そんなことよりも「何に生きていきたいか?」を自分に問えているか?という問題提起に感じる。これは以前、遠藤周作の本でも読んだことがあり、胸に迫る鋭さが似ていると感じた。
もちろん、医療に関してこれが正しいわけでもないだろう。だけど、みんなが言ってるから自分もそうする、世の中では、病院ではこれが正解だからそうする。そんな簡単な話で本当にいいのか?という引っ掛かりに気がついた。
言いにくいことを言ってくれる人
自分が感じている違和感は、誰にでも共有していいものではない。分かっているから、こうしてモヤモヤを抱えているんだ今日も。
マイナスなことってすごく言いにくい。きっとこの先、もっと言いにくくなると思う。でもいい面を見せて、楽しいことだけ話していればいいかといわれると、そうではないと強く思う。
霧のかかったこの嫌な気持ち…それを言葉に変えてくれるのが、この人なんだと思う。
実際本の中でも、「先生、この件についてバシッとやってください」なんていう編集者の人もいたりして、言いにくいことを言ってくれる人代表のような存在なのだなと感じた。
お説教と言ってしまえばそれまで。自分の名前をさらして、出版する覚悟をもって話す説教だ。こんな覚悟で、何かを言及できるのはなぜなんだろう?そう思いながら著者のWikiを覗いてみたら…身近な人の裏切りにもくじけず、ついには乗り越えた壮絶な人生が垣間見えた。これは深みが違う…!
この壮絶な時期のことは、直木賞を受賞した小説「戦いすんで日が暮れて」に載っているらしい。わたしは次にこの本を読むつもり。
何に生きたいか?は死を覚悟してから
「死ぬための生き方」を読んで思ったこと。日頃の何気ない所作、行動には、自分の思想が反映されている。
いつも自分が悩んでいるような、何をしていきたいか?何に生きていきたいか?を考えるのは、まず死ぬ覚悟を決めてからなんじゃないか。
いつかは死んでしまうのだからって、どうでも良くはない。生きてるうち、何ができるか。そんなふうに考えたら、いろんなことが自分ごとになる。それこそが大切なんじゃないかと思った。
たまに入る自虐やユーモアがまた魅力を増している。この毒とユーモアのバランスはどうやったら生まれるのだろう。やっぱり人間性がそうさせるのかな。