わたしは以前、何もかも分からなくなる、という体験をしたことがあります。
どうして朝起きて、メイクして、服を着て、誰かと会って、ご飯を食べて、夜眠っていたんだっけ。一つひとつに何の意味がある?そもそもどうやってやるんだっけ?笑っちゃうようだけど分からない。生活がまるごと空中分解したようでした。
あの時は途方にくれました。もう断片的にしか覚えていませんが、今は再生して、なんとか元気にやっています。
もうあれは勘弁だな~と思いつつ、まだ先はそこそこ長いので、また起こることもあるでしょう。
再生するなら、もう一度生き直すなら、こんなふうがいいかな。そう思った小説がこの「ハゴロモ」です。
あらすじ
これは再生にまつわるおとぎ話。
都会でひっそりとした幸せを感じながら「待ち」の状態で生きてきた主人公は、ふと解き放たれた今、どう生きていったらよいか分からなくなってしまいました。
どうしようもない気持ちで故郷に帰った先の景色、人との交流、人智を超えた体験。それらを通して、ほんの少しづつ生き方を思い出していきます。
羽衣をかけあうやりとり
私は自分が取り残してきたものの大きさに呆然としていた。リハビリが大変そうだと思い始めたのは、この頃だった。思っていたよりもずっと、私のいろいろな部分はなまってしまっていて、生きることさえもぎこちなかった。
都会の生活に疲れ果て、地元に帰って祖母の手伝いをしながら生活し始めた主人公は、迷いと焦りの日々を過ごしています。ある時、かつて姉妹になるかも知れなかった、友達以上家族未満の存在を思い出しました。
なんとも独特な魅力のある彼女と再会してからは、気のおけない友達として、自分の過去を知るよき理解者として、時にアドバイザーとして彼女が寄り添ってくれています。
主人公はやり取りを重ねるうち、一つひとつ、小さな何かを受け取ったり、自分がもともと持っていたものに気がついたりして、冷たかった手がじんわり温まるようにゆっくりと回復していきます。
私はなんだか、今の時間全体に、その味わいに、ふわっと包まれたような感じがした。人の意図しない優しさは、さりげない言葉の数々は、羽衣なのだと私は思った。
他にも色々起きるんだけど、わたしはこの子の存在が主人公にとってはとても大きいと感じます。そして、かけてもらうばかりじゃなくて、主人公もこの友人の羽衣にきっとなっていたと思うんですよね。
これはおとぎ話
この物語はありえないだろー、みたいなことが起きます。作者のよしもとばななも、あとがきでおとぎ話のようなものと言っているし、「特別すぐれた小説ではない、なんていうこともない内容」とまで話しています。
でもなんだか、そこに救いを感じる自分がいるんです。
人と人の間には本当には言葉はない、ただ、全体の感じがあるだけだ。その全体の感じをやりとりしているだけなんだ
ぼんやりとしたイメージで存在していて、説明できないことってあると思います、生きていると。そういうものを、なんとか言葉にしようとした先のおとぎ話なんじゃないかと思うんです。
ご都合主義だってファンタジーだってフィクションだっていいじゃないか~!自分を救ってきたのは、いつだって理屈じゃない部分でした。理屈じゃないことで救われて、あれは何だったんだろうってことが、ほんとはみんなあるけど言ってないだけって思ってます。
また少し死んでしまったら、こんなふうに
ハゴロモは、十数年ぶりの再読でした。あの頃も好きな作品だったけど、ずいぶんと時が経った今読むと、受け取り方が変わっていました。それはわたしがこの長い間で、いろんなものを手に入れては喪失してきたからだと思います。
冒頭で何もかも分からなくなった時のことを話したけど、わたしはあの時、部分的に死んだのだと考えています。今の私は、そこから何とか端材を組み合わせて生活できるようにした木偶の坊(でくのぼう)です。わたしはこの「でくのぼうの人生」をなかなか気に入って過ごしているけど、また何かに乗り換えたり修理する必要があるかもしれません。
失った部分はそのまま穴を開けたままで風通しをよくしてもいいし、何かほかのもので満たしてもいい。この物語の主人公は、その穴に生まれ育った故郷の川の水をそそいで、地元の人との交流や、説明できようもない縁を経て得た栄養を注いで、もう少しで何か生えてきそうな、そんな感じです。
これから彼女は生き直していく。そこで手にした羽衣で、かつて自分がそうしてもらったように、ほかの誰かをそっとくるむのだと思います。
それにしても、小説もドラマもRPGも、主人公は登場人物と話さないと何も始まらないし、物語が展開していきません。そういうことなのかもしれません。