BOOKS:LIMELIGHT

読んだ本を、感想とともに紹介していきます。

ショーペンハウアー「読書について」感想。読書との主従関係を考える。

「頭の中は 本の山

永遠に読み続ける 悟ることなく」

ホープ『愚人列伝』第三章、一九四)

ショーペンハウアー著「読書について」より引用

今日でとうとう100記事になった。内容的に薄いものが多いけど、何かをテーマにして懲りずに100回も書けたことに驚いている。今ではまとめたいことが多すぎて記事を書くのが追い付かないほどで、もうこれは趣味を超えた執着めいたものに移り替わりつつある。

ところで最近家族からこんなことを言われた。

「たくさん本を読んでるのに、なんでまだアホなの?」

とっさに笑いながら突っ込んだものの、確かにそのとおりである。ジャンル問わず欲望のままに本を摂取しているけど、高みにのぼった感じがしない。視点が変わっていない。

なんとなくこのことはわたしの心に深く刺さり、その分深く思考をするきっかけになった。

読書の方向性、なんかおかしいかもしれない。とはいえ、読む本はどれもこれもが素晴らしい。わたしの読み方、ものの捉え方、考え方の癖が、何かを邪魔している気がする。

そんななか、自分の過去記事を読んでいたらこの本「読書について」を思い出した。

相当耳が痛い内容で、ありがたい説法を聞くような気持ちで読み進めている。

読書が「主」になってないか?

本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。

ショーペンハウアー著「読書について」より引用

多読に走り、他人の考えが絶えず流れ込んでくることによって、精神のしなやかさが失われることに警鐘を鳴らしている。

要するに、他人の言う事ばかりに流されて、自分の頭で考えるのやめてないかあんた?自分を見失ってないかあんた?ってことである。

またこんな言葉に言い換えてもいる。

人生を読書についやし、本から知識をくみとった人は、たくさんの旅行案内書をながめて、その土地にくわしくなった人のようなものだ。(中略)これに対して、人生を考えることについやした人は、その土地に実際に住んでいたことがある人のようなものだ。

ショーペンハウアー著「読書について」より引用

あくまで本は、ナビゲーターであり、アドバイザーのいわば「従」の存在。それが、目的が読書ということになると、読書が「主」になっていることになる。

主従が逆転すると、生の体験が圧倒的に足りず、身になっていかない。この場合の生の体験とは「自分の頭で考えること」を指している。

自らの柱を補強するための読書であれ

この本に書いてある理想の読み方とは、自分で考えた物事について、読書を通じて補強していくイメージ。

わたしの読み方は、本を読んで書いてある思想について、自分なりに解釈を述べていくというものだった。全くの真逆で、ずーんと落ち込む。分かったような口をずっときいていたんだなと反省。。

しかし、自分で考えるのにも、材料がいる。何もないところからは考えも浮かばない。本とは材料でもあるので、5月から約半年間で読んだこの本たちは、ひたすら材料集めをしていた、と思うことにした。

これからの100記事は、わたしが「主」となり書いていこう

世の中には前向き/後ろ向き、空気を読む/読まないなど、とにかく正反対の本がたくさんある。これは、どっちも等しく正しくて、もっと大きく言えば別にどっちでもいいのかもしれない。

要は自分が主となってどんな判断をするか、いうことなんだと思う。だれかの考えによりかかるのは安易で愚かな行為で、つぎはぎして自分の意見としてまとめたってなんにも身につかない。

この考え方がいいと思うんだ、と自説を立てる。それに沿う参考文献をあたったり、反対意見の本も参考にしながら、自分の意思をより強固なものにしていく。こういう読み方が、自分の柱となるのではないか。

長らく読み方が正反対だったので、すぐにはうまくいかないと思う。それでも引き続き材料集めをしながら、何回かに一回はこの考え方を思い出して記事を書いてみよう。

ちなみに今日の記事は第一章をうけた内容。第二章は物書きについて述べてある。そっちもズシンとくる内容なので、また折をみて話すことにする。

なんかこう…新しめの本って、書いてあることが結構同じのことが多い。言い換えているだけに感じることがだんだん増えてきていて、退屈に感じていた面がある。

この本は、なかなか偏った内容にも感じるけど、ここまではっきりと読むこと・書くことについて自論を展開している本は、わたしにとっては新鮮で得るものが多かった。

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