本の内容が難しくて理解が及んでいないのに、心が震えるってことありますか?わたしにとってはこの本がそうです。
乗代雄介の「本物の読書家」読了。約150ページの中編が2つ入っている小説でした。
1つ目の表題作は、ざわざわする面白さですっかり世界にはまり込んでしまった!!ゆえに感想を書くのに時間がかかりそうなので、今回は2つ目の物語をレビューしていきます。といってもわたしに説明ができるのだろうか。うまくいかないだろうけどやってみます、というところです。
これは続編
「未熟な同感者」は、著者の処女作「十七八より」の続編。前作は主人公にとって大きな存在だった、亡き叔母との関係を描いた回顧録です。記憶の端々まで思い返しながらも主観を取り除いて紡ぐことで、主題を浮かび上がらせるような構造になっています。
前回は高校生だった主人公・阿佐美景子は大学生になりました。選択肢がなくなり仕方なく入ったゼミでの出来事が綴られています。
何か起こる度に、本を引用しながら主人公が思考整理するターンがくるのですが、これがほとんどまったく歯が立ちません。
引用の本は、例えば以下のような作家のものです。
特にサリンジャーは思い巡らせる頻度が高いので、サリンジャー好きの方には新たな解釈を得られる作品かもしれません。
分からないなりに。印象に残った部分
読んでいくと分からないなりにも、印象に残ったところが2つありました。
読むこと、書くことについての考察
二葉亭が翻訳の際に、ツルゲーネフが書く時の心持と同様に神聖でなければならないと意識したということは、読む行為のうちに書く行為を体験しようとしたということに他ならない。読むことで書かれていることを体験するのではない。読むことで、書くことを体験するのである。その同一性こそが「神聖」なのだ。
乗代雄介著「本物の読書家」より引用
…ね?よくわからないですよね??わたしだけなんだろうか…
そして直後、このように言い換えてもくれています。
繰り返せば、文学とは、文章の中に書くという行為を見出し、その文章を現象界から英知界に逃がそうとする営みを呼ぶのである。
乗代雄介著「本物の読書家」より引用
これは、分かりかけます。こういうところが何か所かあって、文章の中にほんの少しだけこの「分かりかける」を入れてくれるのが今回の特徴な気がしています。十七八よりでもやってくれてたのかもしれないけど、気づけたのは今回でした。
亡き叔母の痕跡を探す読書
亡き叔母は文学に精通していたので、彼女の読書の歴史はそのまま叔母との歴史でもあります。再読・再考することで見えてくる叔母の思いや意図を知るとき、本人はもういない。言葉を投げかける先も、感情をぶつける先もない。言いようのない無力感に包まれる主人公を見ていると、切ない気持ちが溢れてきます。
小説内の引用の本は、ほとんど読んだことのない作品ばかり。細かな部分まで理解している訳ではないのに、読み終わったあと書店に行き、三部作最後の「最高の任務」を買いました。でもすぐには読みません。やることができました。
理解度を上げるため、わたしはサリンジャーを読む!
ほんの少しだけわかった気がする。作者がたらしてくれた糸を、わたしはなんとか手繰り寄せてこの物語をより鮮明に知りたい。解像度を上げるためにも、サリンジャーを読むことにしました。家族の本棚をみたら「ナイン・ストーリーズ」があったので、まずはそこから。
「ライ麦畑で捕まえて」は読んだことがあるけど、中学校の読書感想文で読んだきりで何にも覚えていません。今読んだら何を思うだろう。読んだあとにこの物語を再読したら、未熟な同感者が何なのか、わたしにも分かるかもしれない。
↓できれば「十七八より」から読んだ方が、より頭に入ってくると思います!
↓読んでいる途中のはなし