この間した昔日の客のレビュー、話したりなかったのでまたやります。
↓本の概要についてはこちらで説明しました
今回は古本屋店主の著者と、文学者との交流について。敬称を省かせてもらいますが、上林暁、伊藤整、正宗白鳥など、この本にはさまざまな文学者が登場します。なかでも印象的だったのが、尾崎士郎、尾崎一雄(以下、士郎先生、一雄先生)の二人との交流です。
数えたら士郎先生の話は3話(尾崎さんの臨終/最後の電話/二人の尾崎先生)、一雄先生の話は4話(かわいい愛読者/駆込み訴え/洋服二題二人の尾崎先生)で30話中、6話も描かれていました。名前だけならもっと出てきます。
まず士郎先生とのことは、「尾崎さんの臨終」とあるように先生が亡くなった時の話から始まります。新聞の”好きな歌を聞きながら死んでいった”との追悼記事を読み、その後先生と生前親しかった人から「亡くなる直前に、枕元にいる家族や親せきたちに俺の小さな時から好きだった歌を歌ってくれといい、家族たちは歌った。でもその歌は間違いだった…」というなんとも切ない事実を聞く話です。それを知った著者は、尾崎さんとは腹を抱えて笑っちゃうようなことがたくさんあったな、と振り返ります。
……「俺は間もなく死んでしまうというのに、何をトンマな間違いをやっているんだ」と、怒鳴りながらもそこは生来の楽天家の尾崎さん「まあいいや、俺も随分トンチンカンな間違いをやらかして来たんだから。(中略)」と、苦笑しながら昇天されたことと私は思うのである。……
関口良雄著「昔日の客(夏葉社」より引用
次の話「最後の電話」は、士郎先生のお見舞いに行った日の話。面白い話はあるかと聞かれ、著者は妻のゆばり(おしっこ)の音で一句詠んだかと思ったら、今度は深夜になり先生から電話が。具合が悪いはずの先生からわざわざあの句の下の句はなんだっけ?と質問されていてわたしも笑ってしまいました。二人のふざけあってる雰囲気が楽しいです。そして切ない。
一方、一雄先生との話で印象的なのは「洋服ニ題」。京橋の画廊に出品された先生の軸を見に行った時の、何気ないこの会話がすごく好きです。
軸に仕立てた一行書きのこの句は、風になびいたように、左よりに湾曲していた。
「関口君、どうして俺の字は曲がるのだろうね、まっすぐ書きたいのだが」
「いいんですよ、先生。木枯の句なんですから。」
関口良雄著「昔日の客(夏葉社」より引用
ここだけ抜いてもニュアンスが伝わらない気がしますが…本当に何気ないシーンなんだけど、ちょっとしたことで確かめ合う二人が微笑ましいんです。大人になって作家先生になっても、古本屋を営んでいても、こんな風に話し合えるのはお互いにとっていい関係だなと感じます。
「二人の尾崎先生」は両氏との交流に関する最後の話で、ラストに出会いの話が来ます。一回目読んだときは気が付かなかったんだけど、今回二人の話をしようと探している中で気が付きました。著者が本を編むときに、記憶に新しい方から書いたのか。それともそこに伝えたいニュアンスがあったのかはわかりません。でも、とくに士郎先生とは、はじめに永遠の別れを見ているせいか出会いの楽しげな様子も、どこか切なくて哀愁が漂います。
この本自体の最終話「『日本近代文学館』の地下室にて」では、晩年著者が病に侵されながらも、10年前に寄贈した一雄先生らの本に会うため日本近代文学館に足を運びます。寄贈を申し出たとき、車を寄こすという文学館の方の言葉を辞退し、風呂敷にいっぱいの本を自分で運んで届けていました。真夏に汗をかいてでも自分の手で渡したい著者の思い入れを感じます。近代文学館の地下に貯蔵された本を一冊一冊手にとっては眺め、あるべきところに収まったのだ…という著者の様子を見て、本に対してこんなに誠実に生きられるのって素敵だな。いいな…と羨ましくなりました。
士郎先生、一雄先生の話が行ったり来たりになってしまいましたが、今日のレビューはここまで。どちらの先生の本も読んだことがないので読みたい。近代文学は読むのが難しいイメージなので、現代語訳の少しでも読みやすそうな本からチャレンジしてみたいです。