映画『ひゃくえむ。』を見てから、頭の中がそればっかりです。
原作漫画を読んでから、頭の中がもっとそればっかりです。
それぞれの感想は以下の通り。
(映画)あの一瞬に生きてみたい —映画『ひゃくえむ。』を観て
(漫画)懸ける一瞬を積み重ねる。魚豊『ひゃくえむ。』を読んで
今日はまとめきれなかったものというか、新たにまとめておく必要があることを話していきます。個人で練り上げる、哲学についてです。
「哲学」って言ったけど、哲学をあんまり知りません。ですが、ちょっとこのまま話させてください。
ここでは、個人の哲学を「善悪をはじめとした、すべての判断の指針となるもの」というような意味合いで使っていきます。
そして、私はずっと間違ってたんだ。
哲学っていうのは1人1つで、いろんな知識や経験から自分なりの決定的な形を作りあげていくんだと思ってた。
ひゃくえむ。を観て読んで、どうやらそれは違う、哲学というのは方向性を定めるコンパスのようなもの。目標の形が変われば、そこに向かえるように変えていっていいんだと感じた。
だれよりも早く走るために、トガシと小宮は哲学を練り上げる。信じて走り続けられるように、言葉や経験を重ねて指針を作っていく。
クライマックス、それぞれの指針が壊れて、真逆の新たな指針が生まれた気がする。完全に壊れたわけじゃなくて、別の場所から芽が出た感じ。
それを観たとき、ああ、信念って、哲学って、別に不変のものでなくていいんだ、変わり続けていいんだと思った。
頭のどこかで、絶対に揺るがない指針…自分専用の哲学がほしいと思っていた。そのためには、たくさん見て読んでまとめて、自分なりの柱を作ろうと励んできた。
だけど違うわ、「何がしたいか」によって、何を信じるかは変えてもいいや。というか、変えていくべきなんだ。
世の中にはもうすべての言葉がある。前に進みたいとき、一旦立ち止まって落ち着きたいとき。それでもやっぱり進む必要があるとき。
今まで集めてきた言葉のストックから拾い出して組み立てよう。それでも挫けそうになったら、言葉が足りないからまだ探し続ける必要がある。
えーと、要するに、哲学は1人1つの大きな柱じゃなくて、目的のための道具のひとつだったんだなっていうこと。哲学は必要だけど、いつまでも形にこだわる必要はないということ。目的によっては、矛盾する2つを同時に持っていてもいいんじゃないか。状況に応じてどちらかを使えばいい。進めるかどうかに焦点をあてて。
—またひとつ、柔らかくなれた。
これを使って「何がしたいか?」
行き止まりがまたひとつ。今日はここまできたのでよしとしよう。
……今日話したことは、多分間違ってる。間違ってるが、それであってる。
これを繰り返しながらやってくということ。
進めてれば、それでよしということ。
