ユーモア【humor】 …人の心を和ませるようなおかしみ。上品で、笑いを誘うしゃれ。諧謔 (かいぎゃく) 。
類語…機知(きち) 頓知(とんち) 機転(きてん) ウイット エスプリ(goo辞書より引用)
今わたしが一番欲しいもの、それはユーモアだ。これさえあれば、しんどいことも面白おかしく、楽しいことはどこまでも豊かに膨らんでいくだろう。
そんな話を実際にしたかどうかは定かでないけど、家族がこんな本を買ってきてくれた。
読売新聞社がかつて行っていた「読売国際漫画大賞」に入選した作品を、ずらーっと掲載した文庫本だ。この賞は、一般部門とジュニア部門(幼児/小・中・高校生)に分かれている。社会風刺から人間のおかしみ、切なさ、問題提起など多岐にわたる作品たちは、ただ見ているだけで楽しくなって、時には鋭く突き刺さる。
今日は、個人的に好きだったユーモア作品の紹介と、それを元に考えたわたしなりのユーモアのかたちを見ていただこう。
特に好きだったユーモア
この本は第3回(1979年開催)分が掲載されている。テーマは「壁」。本当は作品込みで見せたいけど、著作権があると思うので文章で頑張って伝えてみよう。
- アナトリー・オレホフ(ソ連)
大きな通りの両側に「そちらに進め」を示す指差しの張り紙。大勢が進んでいるが、実は三角形状の行き止まりだった、という絵。
直接的に言えないことを表せるのが、ユーモアアート。 - アリョーク・テスレル(ソ連)
四角い漫画のコマ状のものに一人の人間が入っていて、階段状にコマがジグザグ並んでいる。ジグザグする度に頭をぶつけたり、尻餅をついたりして進んでいく。
最後はジグザグじゃなく、奥(奥行き)の方に進んでいくのが好きだったな。人生を感じる。 - バーラ(ベルギー)
年代の違う5人の男性が、壁に絵を描いている。
左から子供(女の子の棒人間)、青年(スレンダーな女性)、成年(豊満な女性)、中年(スレンダーな女性)、老年(女の子の棒人間)
だんだんと好みやら感覚が成熟していって、そしてまた幼年に帰っていくのかなあ。それとも書くのがめんどくさくなる?こういうユーモアが大好きだ! - 東セツオ(東京都)
ベルトコンベアに並ぶ人間たち。ロボットの手によって、流れ作業的に機械にされていく。(奥の格子窓から恐ろしそうに他の人間が見ている)
これは義務教育やら入社研修をブラックユーモア的に伝えている作品だと思う。自分が馴染めなかった世界もこう見るとおかしくて、機械になってみてもよかったかな〜とか思ってしまった。 - 一宮晴美(東京都)
タイトルは「テスト3猿」。
結果を聞かざる、成績を言わざる、テストを見ざる。
ジュニア部の受賞作品。受験期の現実を可愛く表している。しんどそうなのがまたいい。
他にも、テンガロンハットのへこみは実は空手チョップで作っていたとか、家も車もピアノもローン…もしかして私もなんじゃないかと疑念を抱く子供、月はどうして丸くなるのか、星を食べてるんじゃないのかな〜という空想とか。それぞれの一コマ絵の中で、たくさんのストーリを味わえた。
入賞作品は切り口に個性がある
入選作品をみると、どれも切り取り方に個性が際立っている。しかし、表現の仕方には共通点がある気がした。扱うモチーフが同じだったりして、特定のイメージを伝えたいと思ったときの「共通認識」があるのだなと改めて感じた。
また、たまに分からないユーモアもあって、国や年代が違うと共通認識がないため、途端に伝わらなくなってしまうところも趣深い。
あと、絵の時代的な流行りなのかな?割とタッチが似ているものが多かった。レッドブルの動画に出てくるイラストっぽい感じといったら伝わるかなあ。
選考委員のユーモアの捉え方
賞の選考委員は以下の通り(敬称略)。
石ノ森章太郎/おおば比呂司/加藤芳郎/里中満智子/杉田豊
福田繁雄/星新一/水野良太郎/やなせたかし/山口瞳/横山隆一
作品を紹介する合間に、何人かの選考委員によるユーモアに関するトピックがある。漫画って、アートって、ユーモアって何だろう?それぞれに考えて、独特な切り口で話しているのが興味深かった。特に気になった二人の話を紹介する。
やなせたかし「ジュニア部の漫画」
「漫画の質は国の文化の程度に比例している」という話から展開して、ユーモアを扱う際には、しっかりとした知性と批判力を持ってほしいと投げかける。
具体的には、さまざまな情報に対して敏感になり、旺盛な好奇心をもつということ。やってみると、世の中には矛盾や間違いが多いことに気がつく→これが漫画的だという。
それが解る人になるには相当な知性が必要。しかし、知的なことは、人生で一番面白く、また娯楽なのだと話す。
また、これから来るであろう「コンピュータの時代」になれば、一番必要なのは人間の魂、情緒の部分になる。独創的な思考力、ユニークな発想は今までよりもっと必要になってくる。それには漫画的な発想が一番大切で、月並みな常識から飛躍してしまうことが重要になってくる。
ここまで読んで、す、すごい…!と唸っていたら、子供に向けてより、大人に読んでほしいと思って書いたとある。そしてこれは漫画の原則論のようなことだとも。
うーーん、限られた文字数の中で、これだけのものを感じさせてくれるこの人は、すごい。この人が書いた本を読んでみたい。アンパンマンも、今更だけど読んでみようか。
牧野圭一「画分」「漫分」の落とし穴
絵が上手いことを「画分」、アイディアがいいことを「漫分」として、それぞれで切り取りすぎることを危ぶむ内容となっている。
絵が上手、下手ではなく、「最もふさわしい表現」に磨き上げられているかこそが大切なのだということ。その世界を表すために適したものであれば、絵の良し悪しは必ずしも問わない。
作者の経験、技量、知識などの差にかかわりなく、言いたいこと、表現したい内容と表現方法がピッタリ調和した時、その作品は一気に光彩を放つ。"下手な絵"は昇華して「上手・下手の基準の域」を離れてしまうのである。
「ユーモア美術館(新潮文庫)」より引用
しかし、多くの要素を一点に集約させるなかで、この調和は崩れやすい。「幼児、アマチュアがしばしば偶然が支配する。プロは力量、経験、知識があるから成功率が高い」と話している。
この言葉にすごく救われた自分がいるんだよなあ。絵が好きだけど、自分が思うようには全然描けない。だからあんまり描いてないけど、描かなければ上手くならない。そんなジレンマがあった自分には、「調和」というキーワードがすごく響いた。絵の良し悪しじゃなくて、私のいいたいことが的確に伝わるものを目指せば、怖くない。そもそも考え方の根っこが違うことに気がついた。
その他に、どうしても書いておきたかったのは長野みのる「ユーモア・アート時代がきた」にある、「ユーモアは心の栄養だ」という部分。
本当にそう思う。現に、この本でユーモア作品を味わった私は、こんなに豊かな気持ちになっている。
わたしの考えるユーモア
こういうものを見ていると、やってみたくなるのがわたしである。早速作ってみた。
テーマは「今わたしがやっていること×ユーモア」。
何かやろうとしていること(作品の中でいうパズル)に対して、教えを乞いたり本を読んだりまともに勉強する(はめるピースを見つける)のではなく、自分で紙粘土を使ってつくろうとしている様子を描いてみた。
ユーモアの感じどころとしては(こういうことを自分で説明することの切なさを今感じている)、そこにピースあるなら探してそれをはめればいいのに!そのほうがきれいな作品ができるでしょ!と周りの人は思うだろうけど、本人としては至って真面目にこの方法がいい、と思ってやっているということだ。
…うん、わかってる。そこまでは伝わらないよなあ、これでは。テーマの切り口、画力とか構図力とかがないとこのユーモアスケッチというのは成り立たないらしい。未就学児でも、このバランスが絶妙な人がいて唸る。でも、センスとか才能とか、そういう言葉で扱いたくないんだよな、この話は。
何を、どう伝えたいのか、想いを尽くして方法を探っていけば、いつでも誰でも可能性はあるんだと信じたいところだ。
まずは、やってもないのにひるむのをやめよう。多分、やれば、ほんの少しならできるようになるはずなんだ。知性と感性とを磨く努力をしつつ、自分の伝えたいことの調和点を追求する。わたしなりのユーモアのある切り口を増やしたい。
こういう本、もっと読みたいなあ!家族の選書に感謝しつつ、おかわりの依頼をしよう。
なんと、Amazonにもどこにもこの本はなかった(あやしい出品はあったけど)。いつかどこかの古本屋で見つけたら、是非とも、ちらっと見てみてほしいです。