村上春樹著「ふわふわ」を再読した。
著者が幼少期を共に過ごした猫、「だんつう」との思い出を描いた作品。
挿絵は安西水丸。この人の絵が好きなので手に取った。
「だんつう」とは中国の上等なじゅうたんのことで、名前は村上春樹の父親がつけたそうだ。ネーミングセンスが光ってるなあ。
淡々とした語り口の「大人の絵本」
本がやたら薄いなと思い、数えてみたら28枚だった。画用紙を薄くしたような紙にシンプルなイラストと、短い文章。淡々と、容姿や振る舞い、家に来ることになった流れなどが描かれていく。
ネットで調べると「大人の絵本」とあった。確かにそんな感じかも。子どもがこれを読んで喜んだら相当早熟だと思う。
思い出すのは記憶の中のあいつ
こういう本を読んでいるとやっぱり頭をよぎるのが実家にいる猫たちだ。
とはいっても、わたしが思い入れのある猫はもうこの世にいない。今いるのはその意思を受け継いだ弟子のような猫たちで、弟子たちは代々、我が家を守る「守り猫」みたいな存在になっている。
なかなか説明が難しいんだよなあ。ちなみに思い入れのあるその猫との話はしない、まだその時ではない。でもたまに、「あいつ、元気かな~」とか口に出していってみる。
そんなに悲しくもなれないのは、看取れなかったからだろう。まあ、そもそもわたしとあいつは割とドライな関係だったのだ。
まだ小さなちいさな子供であるぼくと、年老いた猫とのあいだには、それほどの大きさの(あるいは考えかたの)ちがいはない。
村上春樹・安西水丸「ふわふわ」より引用
ちょうどこんな感じ(?や、ちょっと違うかも)で、わたしたちは対等だったのだ。アホなことをすごくまじめな顔して考えたり、何でもないところですっころんではすました顔をしあっているような関係だったのだ。
この本を読んでいると、自然とあの頃のことを思い出してしまう。懐かしくも悲しくもなくて、淡々と。
記憶の中の家族に会える本、なのかなあ
この本「ふわふわ」は、人によっては、物足りなく感じる人もいるかもしれない。短いし、それこそふわっとしてるし。
しかし、読んでいて、わたしはかつての家族を思い出した。昔、確かにあの小さな生き物と過ごしていたな。大したことは何にもなかったな。でもそれって結構いまのわたしの柱を構成する一つになっているな、と今書きながら感じている。
「だんつう」みたいに聡明で美しいあいつでも、村上春樹みたいなわたしでもなかったけど。
あいつとの日々を振り返るときは、この「ふわふわ」の文体を真似したいとも思う。思い出すときは、慎重に、淡々と、だ。この余白がきっと、大切だ。
わたしが持ってるのは文庫で、単行本は見かけたことがない。絵本らしくて、こっちもいいかもしれない。