今年のGWは、長崎にある遠藤周作文学館に行ってきました。海沿いにたたずむ文学館で、決して大きくはないのですが見応えがあり、2時間ほどかけてじっくり見てきました。
生い立ちから晩年の様子まで、年表形式で作品とともに振り返る展示と、別名義での活動・狐狸庵山人(こりあんさんじん)に迫る特別展示がありました。
人間の本質を描いた重々しいテーマを扱う小説、気軽に読める味わい深いエッセイ。両極端な魅力の輪郭が、前よりもはっきりとした気がします。
今日はそう思った理由をまとめていきます。
「人生が分からないから小説を書いている」
われわれ小説家は、みなさんと同じように人生がわからないでいて、人生に対して結論を出すことができないから、手探りするようにして小説を書いていっているのです。
入ってすぐ、大きく書かれていたこの文章。「人生の踏み絵」という本からの引用文でした。
ぼくも、あなたたちと同じで、人生が分からない。だから今日も書いているんだよと語りかけられた気がして、初めから心がほぐれました。
受け継いだ信仰を「仕立て直す」
母親が熱心なキリスト教徒だったため、自身も18歳で洗礼を受けます。しかし、どうもしっくりこない。
作品をつくる中でその気持ちに向き合っていくわけですが、そのことについて"母親がくれた洋服を、自分の体に合う和服に仕立て直す作業"と話していました。「仕立て直す」という表現が、すごくしっくりきました。
自分なりの解釈を加えて、体になじむような新しい形をつくる。その過程が「海と毒薬」「沈黙」であり、晩年の「深い川」だということです。
多面的に生きる
人間の本質を描いた純文学を次々発表していた遠藤周作は、1970年代頃にイメージが変わります。「違いのわかる男」としてネスカフェのCMに出たり、狐狸庵先生としてさまざまなエッセイを発表します。
その後、素人を集めた劇団「樹座」を立ち上げ、生活の中に人生を見出す試み、欠点を魅力に変える喜びを伝え始めます。
繰り返し伝えているのが、自らを多面的にとらえること。会社員の自分、家庭の自分、そういう一面だけで生きていないか?別の一面を持ってみないか?生き方の指南を、お手本として見せてくれているようでした。
ユーモアをもち、人と生きる
両親の離婚、母親の信仰は、人格形成に大きな影響があったのだと思います。ただ、この方には被害者のようなところがない。もちろん悩むし、辛い思いもするのだけど、それを跳ね返すようなユーモアや周囲との調和がある。
おどけて人を笑わせたり、巧妙ないたずら電話をかけたり。よく分からない人、と思わせておいて、愛情をこめて相手を見ている。小説を書き孤独を大切にしながらも、どこかでしっかり人とつながろうとしている。
どちらの自分も等しく生きる。「人一倍生きた」と晩年にいえるくらい、生き切った深い人生が見えました。
また来ることを約束に、周作塾を買う
着いた時は雲がかかっていて少し残念な気持ちでしたが、見終わった後外に出ると晴れ間がさして美しい海が広がっていました。今の私の気持ちみたいじゃないか…!と写真を撮り、グッズを買い忘れたことを思い出して中に戻ります。
購入したのは3点。
生誕100周年の時の冊子と、遠藤周作にゆかりのある人たちが言葉を寄せた文庫。そして、周作塾です。
「名前を二つか三つ持とうよ」という提案で始まる連載エッセイ集は、読みやすいのに深く、深いと思ったら下世話になったり、いろんな読み口のある本でした。また感想を話しましょう。
本を買って外に出ると、また曇りはじめていて、そうだよな、それが人生だよなと、妙にしっくりきたのでした。
この文学館で、晴れも雨も、綺麗な夕日も見たいです。
遺された作品をもう少し読んだら、また来ます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
今週のお題「ゴールデンウィーク振り返り」